シークレット・サンタ
今日は、木本宗広さんという方が、
facebookで「多くの方に知って欲しい」と
ご紹介くださった実話をお届けいたします。
なんだか「ペイ・フォワード」という映画を思い出しました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
アメリカでクリスマスになると、
貧しく困っている人々に、
現金をプレゼントする男性がいた。
彼はいつしか、
『シークレットサンタ』と、
呼ばれるようになった。
1971 年11月、
ミズーリ-州、カンザスシティの郊外に住む、
23歳のラリー・スチュワートは、
会社が倒産し路頭に迷っていた。
あまりの空腹に耐えきれず、
ついレストランに入って、
取り憑かれたように、注文してしまった。
請求書を出され、ようやく我に返り、
お金を持っていないことに気づいた。
そして、なんとかその場を取り繕おうと、
ポケットの中を探すフリをしながらも、
警察に突き出されても、
仕方が無いと思っていた時だった。
一人の男性店員が、ラリーの横でしゃがんで、
20ドル札が落ちていたと渡してくれたお陰で、
彼は、会計を済ませることができた。
だがこの人生最大の苦境に、
偶然手に入れた20ドルが、
後に、彼の運命を変える重大な鍵となる。
1979年12月、
勤めていた会社の経営が、
思わしくないということで、
ラリーは、解雇されてしまった。
再び、もう助けてもらうあてがないと、
途方に暮れていた時だった。
ふと目についた売店に立寄り、
ポップコーンを注文した。
店員の女性は暗い表情で、
違う商品とおつりを、ラリーに渡した。
ラリーは、彼女が困っているのだと思い、
おつりの中から20ドル札をプレゼントした。
彼女は受け取れないと言ったが、
ラリーはクリスマスプレゼントだと言って、手渡した。
この日はクリスマスだった。
女性は嬉しそうに礼を言った。
その笑顔がラリーを明るくし、
彼は、思いも寄らない行動をすることになった。
そのままラリーは銀行に行くと、
なけなしの貯金を引き出し、
白いオーバーオールに、赤い服とベレー帽という姿で、
町に繰り出した。
そして困っているような人や、
貧しい人に、20ドル札を、
クリスマスプレゼントとして、
手渡したのだ。
シークレットサンタが、
誕生した瞬間だった。
20ドルは大金ではなかったが、
困っている人々にとっては、
大きな助けとなり、喜んで受け取ってもらえた。
それがラリーの人生にも、
思わぬ影響を及ぼすことになる。
翌年の1980年、
ラリーは友人と長距離電話の会社を設立し、
懸命に働いた。
そしてその年のクリスマスにも、
道に立って、人々に、
現金をプレゼントする活動を続けた。
そしてその金額は、
少しずつ多くなっていった。
彼はそれからも、一年も休むことなく、
シークレットサンタの活動を続けたのだが、
9年目の1987年12月、
ついに妻に、シークレットサンタが、
ラリーであることが、わかってしまった。
以後、家族もラリーの活動を知って、
陰から支えることになった。
そしてラリーのサンタ活動は、
全米に広がった。
2001年には、
世界貿易センタービル爆破事件のあった、
ニューヨークに行き、
ホームレスや、職を失った人を中心に、
2万5千ドルを配った。
2005年には、
ハリケーンで、壊滅的な被害を被った
ミシシッピ州を中心に、7万5千ドルを配り、
27年間で配った総額は、150万ドルになった。
だが昨年、シークレットサンタがついに、
カメラの前に現れ、正体を明かした。
彼は昨年4月、
食道ガンのため、治療しなければ、
1ヶ月しか生きられないと、宣告されたのだ。
正体を明かしたのは、
自らの命の宣告を受け、
身近な人への思いやりを、
広げて欲しいというメッセージを、
送りたかったからだろうと、
地元のマクガイヤー記者は、話します。
その反響は大きかった。
2日間で、7000通もの手紙やメールが、
彼のもとに届いた。
大半は、自分もシークレットサンタになりたい、
というものだった。
その年のクリスマスも、
彼は病気を押して、サンタの活動を行った。
そのお陰で、多くの人が笑顔で、
クリスマスを迎えられた。
今年1月12日、
ラリーは58歳で、
静かにこの世を去った。
それでも、彼の笑顔と優しさは、
数えきれないほどの人の胸に、
永遠のサンタとして、刻み込まれただろう。
生前ラリーは、
シークレットサンタ協会を設立、
会員資格は少なくとも1回、
他人への親切な行為を行うこと。
今でも世界中から
登録の申し込みが後を絶たない。
彼のモットーは、
『ほかの誰かを助けることこそが、
私たちの生きる目的なのだ』
facebookで「多くの方に知って欲しい」と
ご紹介くださった実話をお届けいたします。
なんだか「ペイ・フォワード」という映画を思い出しました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
アメリカでクリスマスになると、
貧しく困っている人々に、
現金をプレゼントする男性がいた。
彼はいつしか、
『シークレットサンタ』と、
呼ばれるようになった。
1971 年11月、
ミズーリ-州、カンザスシティの郊外に住む、
23歳のラリー・スチュワートは、
会社が倒産し路頭に迷っていた。
あまりの空腹に耐えきれず、
ついレストランに入って、
取り憑かれたように、注文してしまった。
請求書を出され、ようやく我に返り、
お金を持っていないことに気づいた。
そして、なんとかその場を取り繕おうと、
ポケットの中を探すフリをしながらも、
警察に突き出されても、
仕方が無いと思っていた時だった。
一人の男性店員が、ラリーの横でしゃがんで、
20ドル札が落ちていたと渡してくれたお陰で、
彼は、会計を済ませることができた。
だがこの人生最大の苦境に、
偶然手に入れた20ドルが、
後に、彼の運命を変える重大な鍵となる。
1979年12月、
勤めていた会社の経営が、
思わしくないということで、
ラリーは、解雇されてしまった。
再び、もう助けてもらうあてがないと、
途方に暮れていた時だった。
ふと目についた売店に立寄り、
ポップコーンを注文した。
店員の女性は暗い表情で、
違う商品とおつりを、ラリーに渡した。
ラリーは、彼女が困っているのだと思い、
おつりの中から20ドル札をプレゼントした。
彼女は受け取れないと言ったが、
ラリーはクリスマスプレゼントだと言って、手渡した。
この日はクリスマスだった。
女性は嬉しそうに礼を言った。
その笑顔がラリーを明るくし、
彼は、思いも寄らない行動をすることになった。
そのままラリーは銀行に行くと、
なけなしの貯金を引き出し、
白いオーバーオールに、赤い服とベレー帽という姿で、
町に繰り出した。
そして困っているような人や、
貧しい人に、20ドル札を、
クリスマスプレゼントとして、
手渡したのだ。
シークレットサンタが、
誕生した瞬間だった。
20ドルは大金ではなかったが、
困っている人々にとっては、
大きな助けとなり、喜んで受け取ってもらえた。
それがラリーの人生にも、
思わぬ影響を及ぼすことになる。
翌年の1980年、
ラリーは友人と長距離電話の会社を設立し、
懸命に働いた。
そしてその年のクリスマスにも、
道に立って、人々に、
現金をプレゼントする活動を続けた。
そしてその金額は、
少しずつ多くなっていった。
彼はそれからも、一年も休むことなく、
シークレットサンタの活動を続けたのだが、
9年目の1987年12月、
ついに妻に、シークレットサンタが、
ラリーであることが、わかってしまった。
以後、家族もラリーの活動を知って、
陰から支えることになった。
そしてラリーのサンタ活動は、
全米に広がった。
2001年には、
世界貿易センタービル爆破事件のあった、
ニューヨークに行き、
ホームレスや、職を失った人を中心に、
2万5千ドルを配った。
2005年には、
ハリケーンで、壊滅的な被害を被った
ミシシッピ州を中心に、7万5千ドルを配り、
27年間で配った総額は、150万ドルになった。
だが昨年、シークレットサンタがついに、
カメラの前に現れ、正体を明かした。
彼は昨年4月、
食道ガンのため、治療しなければ、
1ヶ月しか生きられないと、宣告されたのだ。
正体を明かしたのは、
自らの命の宣告を受け、
身近な人への思いやりを、
広げて欲しいというメッセージを、
送りたかったからだろうと、
地元のマクガイヤー記者は、話します。
その反響は大きかった。
2日間で、7000通もの手紙やメールが、
彼のもとに届いた。
大半は、自分もシークレットサンタになりたい、
というものだった。
その年のクリスマスも、
彼は病気を押して、サンタの活動を行った。
そのお陰で、多くの人が笑顔で、
クリスマスを迎えられた。
今年1月12日、
ラリーは58歳で、
静かにこの世を去った。
それでも、彼の笑顔と優しさは、
数えきれないほどの人の胸に、
永遠のサンタとして、刻み込まれただろう。
生前ラリーは、
シークレットサンタ協会を設立、
会員資格は少なくとも1回、
他人への親切な行為を行うこと。
今でも世界中から
登録の申し込みが後を絶たない。
彼のモットーは、
『ほかの誰かを助けることこそが、
私たちの生きる目的なのだ』
俺は今まで自分が大嫌いだった。
「人は自分を愛せる程度にしか他人を愛せない。」
「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分と未来だけ。」
心理学の世界でいつも言われる言葉です。
今日のお話は、まさにこの言葉を体現した方の体験談です。
自分が嫌いだった一人の男性が、どのようにして自分を変えていったのか。
その心の動きと行動がとても分かりやすく描かれています。
少し長いですが、ぜひご一読下さいね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
俺は今まで自分が大嫌いだった。
低身長で運動神経悪くて
転校が多かったのもあったが虐められたし、
俺なんて俺なんて、って思ってたんだ。
もちろん好きな人も出来た。
でもその子は俺の事キモいって言ってるって人伝に聞いたんだ。
泣いたよ。悲しくて悲しくて短足の鈍臭い顔した自分が嫌いだった。
親になんでこんな風に産んだんだって、攻め寄ったこともあった。
思春期にな。
その後も好きな子が出来たりしたがことごとく上手く行かなかった。
友達もいない、
好きな子に好かれない、
それどころか嫌われる、
親からも面倒臭がられる
どうしたらいいか必死にかんがえた。
上辺の友達なら少しはいたんだ。
だが俺は当時、今で言うキョロ充で、リア充の周りをひっついてた。
金魚のフンだった。
ご機嫌伺いをし、思ってないことをそう思うと賛同。
面白くないことで笑い、ムカつかないことで腹が立つ振りをして周りに合わせてた。
もう自分が自分である理由はなかった。
感情を持たずに周りに合わせられる人間なら俺じゃなくても変わらないし、
むしろ居なくたって問題ない。
虚無感を強く感じて死にたいって毎日思ってた。
毎日寝る前に自殺方法を考えてた。
カッターをポケットに忍ばせて学校に行き、ロープを買って帰る。
自殺方法を検索して、想像だけする。
腕は一度切ったことがあったが、痛くてすぐにやめた。
本当に死ぬ気なんてなかったんだ。
苦しんでる俺カッコイイ、とかそんなレベルの中2病だったんだろうと今は思う。
影ではそんなことを繰り返し、外に出ればご機嫌伺い。
ほとほと嫌気が刺した時があった。
そんな時に変わろうって考え始めたんだ。
それからどうやって変わればいいのか考えた。
まず前向きになろうと思った。
カッターとロープを捨てた。
そして具体的に自分のどこが嫌いなのか考え始めたんだ。
ノートに書き出して、その嫌いな部分をひとつずつ消して行こうと思った。
書き出した内容は沢山ありすぎて覚えてないが、大まかな物を挙げる。
〇背が低いところ
〇癖っ毛
〇デブなところ
〇周りの目ばかり気になるところ
〇自分の考えを言えないところ
〇周りに合わせてくっつき虫なところ
〇死にたがってるところ
〇内弁慶なところ
とか、こんな感じで列挙してった。
そして、
〇背が低いところ
→どうしようもないから、気にしない心を身に付けよう
〇癖っ毛
→直そう。金はないが工夫でなんとかなるはず
〇デブなところ
→体を絞ろう。努力あるのみ
〇周りの目ばかり気になるところ
→気にしないようにする。人は人!
〇自分の考えを言えないところ
→どうしようか、親に相談しよう
〇周りに合わせてくっつき虫なところ
→親に相談しよう
〇死にたがってるところ
→これ考えてる時点で俺死にたくないんじゃね?よし、おけ
内弁慶なところ
→まず親に謝ろう
と、ひとつずつ最初の一歩をどうするか考えたんだ。
わかんないとこは親に相談。
ほかに相談相手がいなかったからな。
親のところに行き、
今まで酷く責め立てたり強く当たったことを謝った。
言うのはなかなか難しかったが、変わりたい意識の方が強かったから、
話し始めたらスラスラ話せた。 泣きながらだったけどな。
そして、外では自分の考えが言えずにくっつき虫で周りに合わせてるんだ、
つらいんだ、どうしたらいい、って相談した。
これに対する親の返答が世界を変えた。
母親が言ったのはこうだった。
「人に合わせることはない。
自分の意見も言えないなら、そんな人達は友達じゃない。
周りに合わせて無理して一緒にいるくらいなら一人でいろ。
そんな周りの人間はいなくても問題ない。
友達なんかいなくたっていいんだよ」
って力強く、でも優しく言った。
俺は友達がいなければいけない、と言うような
ある種強迫観念のようなものが取り付いていたため、
その言葉は意表を突くものになった。
あれ?1人でもいいんだ、とか思って気が軽くなった。
母親曰く、素の自分を受け入れてくれるのが本当の友達だから、
それが見つかったらその子と仲良くなればいい、とのこと。
母親も転校の多い子供だったからそう言う考えになった、と後から聞いた。
その考えを聞き、驚くほど心にすんなり入って来た。
そして簡単に受け入れられ、気が軽くなった。
俺はキョロ充を卒業しぼっちに昇格した。
その後は自分のコンプレックス解消に必死になった。
デブなのはダイエットをした。
激しいダイエットだったために体を壊しかけたりもしたが、なんとか絞れた。
髪の毛もいつも適当だったがアレンジを練習し、
美容院に言って恥を捨てて悩みを言いまくり
なんとか改善策を美容師に見つけてもらい
髪の毛のコンプレックスもなくなった。
それからしばらくはぼっちだったが、たまに周りと話す機会がある時に、
変に周りに合わせたりしないようにし、自分の意見を言うようにした。
元から意見が無い訳ではなく隠していただけだったので、
自分の意見を言うのは気持ちいいことだな、と学んだ。
すると、前と変わった、と自然と人が集まるようになったんだ。
すごくうれしかった。
こんなトントン拍子のように書いてるが、
実際は紙に書いてからここまで一年くらい経ってる。
それでだいぶコンプレックスは解消されて来ていたし、
前は俯きがちに歩いていたのが背すじを伸ばして歩けるほど
自分に自信が少しずつついていくのが自覚出来た。
それと、自分の意見を言うようにすると同時に、
周りへの気遣いも忘れないようにしたから
受け入れて貰えたんだと思う。
キョロ充時代の周りを見る能力を使い、
会話の中で人を無駄に傷つけたりしないように、というのは気を付けてた。
急に俺が意見を言う様になったのを茶化してバカにした奴もいたが、
そんなのは「こいつは友達じゃなくてただの顔見知り、どうでもいいんだ」
って親の言葉を反芻させて気にしないようにした。
そしたらそんなのも寄って来なくなって俺の周りは平和になった。
気の合う友達も見つけた。
その後好きな子が出来た。
本当に好きだったんだ。大好きで仕方なかった。
俺は積極的になろうと努力をした。
出来るだけ優しくした。
でもその時の俺は自分に前より自信はついたものの、
まだ別に自分のことを好きになれてはいなかったんだ。
俺は告白したが振られた。
そして何故振られたのか必死に考えた。
少し前まで俺がデブだったからか、と
またネガティブ思考に陥りそうになった。
でも、ある言葉に出会った。
「無償の愛をくれるのは、自分と親だけである」
残念ながら何でこの言葉を聞いたのかは覚えてない。
映画か本だった気がする。
それで考え始めた。
俺は自分のことを好きか、愛してるか。
俺は自分のことを愛してないとはっきり自覚した。
そこから更に考えた。
俺はなんで自分が嫌いなものを、
人に好きにさせようと思ったんだろう、と思った。
想像してみて欲しい。
人にいきなり、
「これすごいんだよ、美味しいんだよ、
好きになりなよ!俺は嫌いだけどね!」
と紹介されたらそれを好きになれるか。
俺はなれない。
なんでお前が嫌いなものを俺に好きになれって言ってるんだろうと思うし、
そもそも胡散臭い。
だからまず俺は、自分で自分を好きにならなきゃと思ったんだ。
今度は逆に俺の長所を考えてノートに書いた。
割と無理やりでいいんだ。
〇鼻筋は通ってる方、
〇動物が好き=優しい心
とか結構無理矢理だったけど、
好きになれそうな要素を絞り出して書いた。
長所、と銘打って列挙すると、本当にそれが秀でてる気がしてきた。
で、なんだ、俺いいとこイッパイあるじゃん、と思い込む。
俺まじ俺好きだー本当俺自分のこと大好きだ。
と毎日暇さえあれば考えてた。
馬鹿げてると思うかもしれない。
でも思い込みの力ってすごいらしい。
本当に俺は自分のこと大好き、と思うようになった。
文字にするとキモいかもしれないが。
そうしたら彼女が欲しいと焦る気持ちもなくなった。
いいや、彼女無理に作らなきゃって思わなくても、
俺のことは親と俺がちゃんと愛してるし、とか思ってた。
それでガツガツした行動が減った。
いいなと思う子に必死にならずに良くその子を見るようになった。
「愛してくれる人が欲しい」
から
「愛しあえる人が出来たらいいな」
に変わったんだ。わかりにくいかな?
それから少しして、この子いいなぁと思っていた子に告白された。
そして付き合うことになり、今もその子と仲良く続いている。
それから、俺が振られた子は超性格悪いで有名だったことも発覚した。
その後、
自分の長所短所を理解してて自分のことを好きな俺は、
就活も成功しました。
ハタから見ると嘘臭いが、本当で、就活って特にそうだと思うんだが、
人間って中身の見えないおにぎりだと思うんだ。
中身が見えないから見た目で決めつけようとする人も多い。
でも中身を知って欲しかったら、
まず自分の中身の具がどんなのか知らなきゃいけないんだ。
俺はこんなのだよ、こんな具なんだ、どうですか?日持ちするよ、
甘いよ、ちょっとピリ辛な部分もあるよ、ってアピールするんだ。
買ってもらうために。
そのためには自分の嫌いなおにぎりを売りつけようとしたって、
嘘で固めることになるし、バレると嫌われる。
ばれなくても嘘をつく自分をもっと嫌いになると思うんだ
だから自分を好きになるって大事なんだと思う。
嫌いな部分は変えなきゃいつまでも嫌いなままだ。
嫌い嫌いって言ってたら腐っていく。
例え自分を好きになれても嫌いな部分だけどんどん腐って
コンプレックスとして傷が残るんだ。
変えよう!
声は何の為に出るんだ!
あの子に挨拶するためだ!
そう思い込んでみて!
特定を避けるためのフェイクは少しだけあるけど実話だよ!
俺の母親の言葉は偉大だと今も思ってるww
読んでくれてありがとう!
「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分と未来だけ。」
心理学の世界でいつも言われる言葉です。
今日のお話は、まさにこの言葉を体現した方の体験談です。
自分が嫌いだった一人の男性が、どのようにして自分を変えていったのか。
その心の動きと行動がとても分かりやすく描かれています。
少し長いですが、ぜひご一読下さいね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
俺は今まで自分が大嫌いだった。
低身長で運動神経悪くて
転校が多かったのもあったが虐められたし、
俺なんて俺なんて、って思ってたんだ。
もちろん好きな人も出来た。
でもその子は俺の事キモいって言ってるって人伝に聞いたんだ。
泣いたよ。悲しくて悲しくて短足の鈍臭い顔した自分が嫌いだった。
親になんでこんな風に産んだんだって、攻め寄ったこともあった。
思春期にな。
その後も好きな子が出来たりしたがことごとく上手く行かなかった。
友達もいない、
好きな子に好かれない、
それどころか嫌われる、
親からも面倒臭がられる
どうしたらいいか必死にかんがえた。
上辺の友達なら少しはいたんだ。
だが俺は当時、今で言うキョロ充で、リア充の周りをひっついてた。
金魚のフンだった。
ご機嫌伺いをし、思ってないことをそう思うと賛同。
面白くないことで笑い、ムカつかないことで腹が立つ振りをして周りに合わせてた。
もう自分が自分である理由はなかった。
感情を持たずに周りに合わせられる人間なら俺じゃなくても変わらないし、
むしろ居なくたって問題ない。
虚無感を強く感じて死にたいって毎日思ってた。
毎日寝る前に自殺方法を考えてた。
カッターをポケットに忍ばせて学校に行き、ロープを買って帰る。
自殺方法を検索して、想像だけする。
腕は一度切ったことがあったが、痛くてすぐにやめた。
本当に死ぬ気なんてなかったんだ。
苦しんでる俺カッコイイ、とかそんなレベルの中2病だったんだろうと今は思う。
影ではそんなことを繰り返し、外に出ればご機嫌伺い。
ほとほと嫌気が刺した時があった。
そんな時に変わろうって考え始めたんだ。
それからどうやって変わればいいのか考えた。
まず前向きになろうと思った。
カッターとロープを捨てた。
そして具体的に自分のどこが嫌いなのか考え始めたんだ。
ノートに書き出して、その嫌いな部分をひとつずつ消して行こうと思った。
書き出した内容は沢山ありすぎて覚えてないが、大まかな物を挙げる。
〇背が低いところ
〇癖っ毛
〇デブなところ
〇周りの目ばかり気になるところ
〇自分の考えを言えないところ
〇周りに合わせてくっつき虫なところ
〇死にたがってるところ
〇内弁慶なところ
とか、こんな感じで列挙してった。
そして、
〇背が低いところ
→どうしようもないから、気にしない心を身に付けよう
〇癖っ毛
→直そう。金はないが工夫でなんとかなるはず
〇デブなところ
→体を絞ろう。努力あるのみ
〇周りの目ばかり気になるところ
→気にしないようにする。人は人!
〇自分の考えを言えないところ
→どうしようか、親に相談しよう
〇周りに合わせてくっつき虫なところ
→親に相談しよう
〇死にたがってるところ
→これ考えてる時点で俺死にたくないんじゃね?よし、おけ
内弁慶なところ
→まず親に謝ろう
と、ひとつずつ最初の一歩をどうするか考えたんだ。
わかんないとこは親に相談。
ほかに相談相手がいなかったからな。
親のところに行き、
今まで酷く責め立てたり強く当たったことを謝った。
言うのはなかなか難しかったが、変わりたい意識の方が強かったから、
話し始めたらスラスラ話せた。 泣きながらだったけどな。
そして、外では自分の考えが言えずにくっつき虫で周りに合わせてるんだ、
つらいんだ、どうしたらいい、って相談した。
これに対する親の返答が世界を変えた。
母親が言ったのはこうだった。
「人に合わせることはない。
自分の意見も言えないなら、そんな人達は友達じゃない。
周りに合わせて無理して一緒にいるくらいなら一人でいろ。
そんな周りの人間はいなくても問題ない。
友達なんかいなくたっていいんだよ」
って力強く、でも優しく言った。
俺は友達がいなければいけない、と言うような
ある種強迫観念のようなものが取り付いていたため、
その言葉は意表を突くものになった。
あれ?1人でもいいんだ、とか思って気が軽くなった。
母親曰く、素の自分を受け入れてくれるのが本当の友達だから、
それが見つかったらその子と仲良くなればいい、とのこと。
母親も転校の多い子供だったからそう言う考えになった、と後から聞いた。
その考えを聞き、驚くほど心にすんなり入って来た。
そして簡単に受け入れられ、気が軽くなった。
俺はキョロ充を卒業しぼっちに昇格した。
その後は自分のコンプレックス解消に必死になった。
デブなのはダイエットをした。
激しいダイエットだったために体を壊しかけたりもしたが、なんとか絞れた。
髪の毛もいつも適当だったがアレンジを練習し、
美容院に言って恥を捨てて悩みを言いまくり
なんとか改善策を美容師に見つけてもらい
髪の毛のコンプレックスもなくなった。
それからしばらくはぼっちだったが、たまに周りと話す機会がある時に、
変に周りに合わせたりしないようにし、自分の意見を言うようにした。
元から意見が無い訳ではなく隠していただけだったので、
自分の意見を言うのは気持ちいいことだな、と学んだ。
すると、前と変わった、と自然と人が集まるようになったんだ。
すごくうれしかった。
こんなトントン拍子のように書いてるが、
実際は紙に書いてからここまで一年くらい経ってる。
それでだいぶコンプレックスは解消されて来ていたし、
前は俯きがちに歩いていたのが背すじを伸ばして歩けるほど
自分に自信が少しずつついていくのが自覚出来た。
それと、自分の意見を言うようにすると同時に、
周りへの気遣いも忘れないようにしたから
受け入れて貰えたんだと思う。
キョロ充時代の周りを見る能力を使い、
会話の中で人を無駄に傷つけたりしないように、というのは気を付けてた。
急に俺が意見を言う様になったのを茶化してバカにした奴もいたが、
そんなのは「こいつは友達じゃなくてただの顔見知り、どうでもいいんだ」
って親の言葉を反芻させて気にしないようにした。
そしたらそんなのも寄って来なくなって俺の周りは平和になった。
気の合う友達も見つけた。
その後好きな子が出来た。
本当に好きだったんだ。大好きで仕方なかった。
俺は積極的になろうと努力をした。
出来るだけ優しくした。
でもその時の俺は自分に前より自信はついたものの、
まだ別に自分のことを好きになれてはいなかったんだ。
俺は告白したが振られた。
そして何故振られたのか必死に考えた。
少し前まで俺がデブだったからか、と
またネガティブ思考に陥りそうになった。
でも、ある言葉に出会った。
「無償の愛をくれるのは、自分と親だけである」
残念ながら何でこの言葉を聞いたのかは覚えてない。
映画か本だった気がする。
それで考え始めた。
俺は自分のことを好きか、愛してるか。
俺は自分のことを愛してないとはっきり自覚した。
そこから更に考えた。
俺はなんで自分が嫌いなものを、
人に好きにさせようと思ったんだろう、と思った。
想像してみて欲しい。
人にいきなり、
「これすごいんだよ、美味しいんだよ、
好きになりなよ!俺は嫌いだけどね!」
と紹介されたらそれを好きになれるか。
俺はなれない。
なんでお前が嫌いなものを俺に好きになれって言ってるんだろうと思うし、
そもそも胡散臭い。
だからまず俺は、自分で自分を好きにならなきゃと思ったんだ。
今度は逆に俺の長所を考えてノートに書いた。
割と無理やりでいいんだ。
〇鼻筋は通ってる方、
〇動物が好き=優しい心
とか結構無理矢理だったけど、
好きになれそうな要素を絞り出して書いた。
長所、と銘打って列挙すると、本当にそれが秀でてる気がしてきた。
で、なんだ、俺いいとこイッパイあるじゃん、と思い込む。
俺まじ俺好きだー本当俺自分のこと大好きだ。
と毎日暇さえあれば考えてた。
馬鹿げてると思うかもしれない。
でも思い込みの力ってすごいらしい。
本当に俺は自分のこと大好き、と思うようになった。
文字にするとキモいかもしれないが。
そうしたら彼女が欲しいと焦る気持ちもなくなった。
いいや、彼女無理に作らなきゃって思わなくても、
俺のことは親と俺がちゃんと愛してるし、とか思ってた。
それでガツガツした行動が減った。
いいなと思う子に必死にならずに良くその子を見るようになった。
「愛してくれる人が欲しい」
から
「愛しあえる人が出来たらいいな」
に変わったんだ。わかりにくいかな?
それから少しして、この子いいなぁと思っていた子に告白された。
そして付き合うことになり、今もその子と仲良く続いている。
それから、俺が振られた子は超性格悪いで有名だったことも発覚した。
その後、
自分の長所短所を理解してて自分のことを好きな俺は、
就活も成功しました。
ハタから見ると嘘臭いが、本当で、就活って特にそうだと思うんだが、
人間って中身の見えないおにぎりだと思うんだ。
中身が見えないから見た目で決めつけようとする人も多い。
でも中身を知って欲しかったら、
まず自分の中身の具がどんなのか知らなきゃいけないんだ。
俺はこんなのだよ、こんな具なんだ、どうですか?日持ちするよ、
甘いよ、ちょっとピリ辛な部分もあるよ、ってアピールするんだ。
買ってもらうために。
そのためには自分の嫌いなおにぎりを売りつけようとしたって、
嘘で固めることになるし、バレると嫌われる。
ばれなくても嘘をつく自分をもっと嫌いになると思うんだ
だから自分を好きになるって大事なんだと思う。
嫌いな部分は変えなきゃいつまでも嫌いなままだ。
嫌い嫌いって言ってたら腐っていく。
例え自分を好きになれても嫌いな部分だけどんどん腐って
コンプレックスとして傷が残るんだ。
変えよう!
声は何の為に出るんだ!
あの子に挨拶するためだ!
そう思い込んでみて!
特定を避けるためのフェイクは少しだけあるけど実話だよ!
俺の母親の言葉は偉大だと今も思ってるww
読んでくれてありがとう!
妹の障害
とても素敵なお兄ちゃんのお話を見つけましたのでご紹介。
この年齢で自分の言った言葉に責任をもって実行する…。
僕も見習いたいです(汗)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
一番下の娘が生後6ヶ月の時に障害が発覚しました。
上の二人は健常者なのに…何で?と、
医者に告げられてから ショックで3日、私は泣き続けました。
私がいつもと様子が違うのを察した長男(当時10歳)が
「母さん、どうしたん?なんか 辛い事があったん?」と心配して聞いてくれました。
私はまだ10歳の息子に妹の障害を話すべきか迷ったのですが、
自分がパニクってたので 泣きながら話してしまったんです。
「病院でな、○○ちゃん 障害があるって言われたんよ」って…。
その時の息子の最初の返事が「それって 死ぬ病気?」だったんで
私が 「ううん、死なんってお医者さんは言ったよ。でも 普通に学校とかにも通えんかもしれん。
あんたたちも障害のある妹の事、学校でいろいろ言われるかもしれんよ」と答えました。
そしたら息子が 「なんだ。たったそれだけの事で母さんは泣きよんか。
○○が死ぬ訳じゃないんなら泣くな。母さんが泣きよったら○○がかわいそうじゃないか。
○○の障害が母さんに負担だったら、俺が助けてやる。○○は俺が育ててやる。
誰かが○○を苛めたら俺が守ってやる。障害があったって俺の妹だって 俺は誰にでも言えるよ。
しょうもない事で泣くな。」と言われました。
私も息子のその言葉で目が覚めました。
息子はホントにその言葉通り、オシメを換えたり、ミルクをやったり、
お風呂に入れたり…社会人になって家を出るまで、妹を可愛がり大切にしてくれました。
娘は少し体が弱いものの、今は普通に小学校に通っています。
娘は今は一緒に住んでなくても お兄ちゃんが世界で一番好きだと言います。
この年齢で自分の言った言葉に責任をもって実行する…。
僕も見習いたいです(汗)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
一番下の娘が生後6ヶ月の時に障害が発覚しました。
上の二人は健常者なのに…何で?と、
医者に告げられてから ショックで3日、私は泣き続けました。
私がいつもと様子が違うのを察した長男(当時10歳)が
「母さん、どうしたん?なんか 辛い事があったん?」と心配して聞いてくれました。
私はまだ10歳の息子に妹の障害を話すべきか迷ったのですが、
自分がパニクってたので 泣きながら話してしまったんです。
「病院でな、○○ちゃん 障害があるって言われたんよ」って…。
その時の息子の最初の返事が「それって 死ぬ病気?」だったんで
私が 「ううん、死なんってお医者さんは言ったよ。でも 普通に学校とかにも通えんかもしれん。
あんたたちも障害のある妹の事、学校でいろいろ言われるかもしれんよ」と答えました。
そしたら息子が 「なんだ。たったそれだけの事で母さんは泣きよんか。
○○が死ぬ訳じゃないんなら泣くな。母さんが泣きよったら○○がかわいそうじゃないか。
○○の障害が母さんに負担だったら、俺が助けてやる。○○は俺が育ててやる。
誰かが○○を苛めたら俺が守ってやる。障害があったって俺の妹だって 俺は誰にでも言えるよ。
しょうもない事で泣くな。」と言われました。
私も息子のその言葉で目が覚めました。
息子はホントにその言葉通り、オシメを換えたり、ミルクをやったり、
お風呂に入れたり…社会人になって家を出るまで、妹を可愛がり大切にしてくれました。
娘は少し体が弱いものの、今は普通に小学校に通っています。
娘は今は一緒に住んでなくても お兄ちゃんが世界で一番好きだと言います。