人の世のはかない様子をよくよく考察してみますと、この世は幻のような一生です。
一万年も生きた人がいるなどと聞いたことはありません。
人の一生はすぐに過ぎてしまうのです。
今、いったい誰が百年(現代の感覚におきかえると”百五十年”)の命を保つことなどできるでしょうか。
私が先か、人が先か、今日とも知れず、明日とも知れず・・・人の命の尽きる後先は絶え間のないものです。
朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となってしまうような身です。
無常の風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息はながく絶えて、元気な顔も美しい姿も失ってしまいます。
そうなってしまえば、家族が集まって嘆き悲しんでも、二度と元通りになることはありません。
そのままにはしておけないので、野辺のおくり(←葬儀を終え火葬場に向かう昔の形態)をし、荼毘にふして煙となってしまうと、ただ白骨だけが残るのです。
それはもう言葉にもいい尽くせない悲しみです。
人の世のはかないことは、老若にかかわらない(老少不定)ことですから、だれもがみな後世の浄土往生という最も大事なことを心にかけて、阿弥陀如来を深くたのみたてまつって、お念仏申さねばなりません。
【白骨章の大意】
参考書籍:御文章ひらがな版(本願寺出版社)
昨年の師走半ばから今日(こんにち)にかけて、過去に長らくご近所にお住まいで西光寺の護持発展に尽力くださった方、ご近所の太陽のような存在だった方、地域社会や寺院にたいへん尽力されたご近所の方・・・いずれも男性の方ですが、ひと足先にお浄土にお参りされました。
称名
当たり前に浸らず感謝の日々を。
釈 俊彰