重い足を引きずるようにして京はアパートへ帰った。買物袋を冷蔵庫の前に放り出したままでテレビの前に寝転がった。テレビを見るつもりはなかった。狭い部屋で横になろうと思えば、テレビと向かい合う形しかないのだ。殺風景な部屋にはそのテレビ以外、取り付けのテーブルとイスしかなかった。よく見ると、クローゼットの前には埃をかぶったキーボードが立てかけられていた。もうかなりの間、触れられるどころか見られることさえもされていないようだ。
京は目を閉じる。頭の働きが全て停止したようだ。しばらくはこのままでもいいだろう、いや、誰も止める者がいないのだから、好きなだけこのままでいいだろう。そう考えて、初めて体が休まるのを感じる。強張っていた体をほぐした途端に鳴ったバイブレーションに京は息をのんだ。
春の匂いは別れの匂いだ、と思わなくなってから随分経つ。新しい出会いがなければ別れなどないのだ。
京は、沈丁花の花の香を感じた場所で立ち止まった。苛立ちさえ感じる春の強風によろめきながら、花をじっと見つめている。何を考えているわけでもなかった。両手に夕飯の袋をさげて、髪は無造作にしばっている。彼女がふと姿勢を正すと、冴えない買物帰りの女が、即座にモデルのような光を帯びた女になるのだ。だがそれを見ている者は誰もいなかった。京は二、三歩その姿勢で歩いた後、またもとの猫背に身体を崩し、そのままその場を後にした。
青白い肌に少し大きすぎる目をつけた女は男が運転する車の助手席でだらしなく体を横にしながら座っていた。目の下に隈にのような黒い影があったが、それはもう女の肌の一部となっていて、それは常に女を疲れた顔立ちにしていた。男は背筋をピンと伸ばし、少しの規則違反もしないという姿勢をみせて運転していた。彼らの間に会話はなかったがそれはいつものことだった。時折女が鼻歌を歌うが、それは曲から曲に飛び移り、再び沈黙に戻っていく。ラジオもCDも流れていない車内はエアコンの風の音だけがいやに響いていた。
女は男がどこに向かっているのか知らなかった。付き合い始めてから今まで、女は自分からどこかに行きたいと言ったことはない。行きたいところなどないのだ。ただ男の傍に居たい、とそう思ってきた。今だってそう思っている。だからこそ、この沈黙を楽しんでいた。ただ、男がどう考えているかは分からなかった。それを思うと、何もかもが面倒に思えてくるうのだ。女はいっそう窓に体をもたせかけた。
「疲れているのかい?」
男は変わらず前を向いたまま女に話しかけた。
「いいえ、疲れてはいないわ。ただいろいろ考えていて」
「何を?」
「今までのことと、これからのこと」
男はちらと女を見たが女の表情は読み取れなかった。
「昨日あなたのお兄さんの彼女に会ったわ」
「今、兄貴に彼女はいないはずだけど」
「”前の”彼女よ」
男は思い出すように目を細めて眉間に皺を寄せたが、それはあくまで振りでしかなかった。あの女のことは忘れようにも忘れられない。
「まだ生きてたのか」
女は不安定な体の状態のまま顔だけ男に向けた。
「嫌な言い方するのね。嫌いじゃなかったはずよ、あの人のこと」
「今、どうしてるんだ」
「さぁ」
女はまた顔を窓にぴったりつけて、独り言のように呟いた。
「幸せそうに見えたわ」
男は何も聞かず、また背筋を伸ばし前だけを見て運転を続けた。
キラキラ