ちょっとしたツテで知り合った93歳のおばあちゃん。(おばあちゃんって呼んでねと言っていただいたので。)

認知症もなくもの忘れもほとんどなく、今も元気でイキイキと過ごされている方。


今まで病気も怪我もしたことなくて、入院はお産の時だけ。

高血圧とかもない。

腰も曲がってなくて、シャンシャンと歩く。

目も良く見えて細かい作業もお手のもの。

耳も補聴器とか使わず聞こえるし、歯も全て自分の歯らしい。



おんなおばあちゃんに元気で長生きする秘訣は?と聞いてみた。

『なまっくらやな。後は私は戦争を生きた人やから、そもそもの体が強かったんやろなぁ。弱く産まれてたら、あの時代に死んでたわ。』


と。


おばあちゃんから聞いた話。(長いです。でも記録として残したい。)



『□歳の時に満州事変があって、□歳でシナ事変が起きて、小学□年生で第二次世界大戦が始まったの。

子供やったから戦時中は苦労と感じなかったよ。ただ、大東亜戦時は大変やった。

女学校の時分でしょ。勉強なんかさせてもらえなくて、毎日爆弾の引火装置造ってた。今の大阪城公園がある場所がその兵器工場だったの。毎日毎日爆弾よ。

疎開したこともあったけど女学校に行かなあかんからすぐに家に戻ったし。疎開の時なんか、何を持っていったと思う?パンツ1枚、シャツ1枚、靴下1セットだけ。

空襲でね、絨毯爆弾落とされて、防空壕に入るの。B29が爆弾ばら蒔いたら南の空へ帰っていくでしょう。そしたら、防空壕から出るんだけど、そこらは家や何もかも崩れてて火が上がり始めるの。トタン板が歩く場所の邪魔になるから避けようとめくると、人が死んでるの。ああ、死んではるわ。って思うだけ。

家に帰ったら、お母さんが玄関に座ってて。私も横に座るの。そしたら、兄さんが帰ってきて、お父さんが帰ってきて、ああ帰ってきはったわってみんな安心するの。

女学校行くのにお友だちと集団で行くんだけど、来ない子がいるの。ああ、死なはったんやって思うよね。昨日の空襲で死んではるんよ。

ようやく女学校で勉強できるようになっても、英語の勉強は敵性語だからさせてもらえなかった。2年だけ、勉強できたけどそれも教科書もないから。私はだから英語はできないの。

学用品も手に入らなくてね。ノートや消ゴムが手に入らない。なんとか1つ用意して。でも、替えがないでしょう?だから、ノートはね、初めに鉛筆で書くの。最後までいったら初めに戻って青色で書くの。そしてて今度は赤色でその上に書くの。お金があればなんとかなっかだろうけど、そんなものないしね。

戦時中は缶詰やなんやと配給があったけど、戦争が終わって軍が機能しなくなると配給もなくなるから、戦後の方が辛かった。私はまだ子供やったから、お母さんが一番苦労なさったと思う。子供で良かった。

戦後、女学校でた子達は働くでしょう。そこに、オンリーさんって言われる人たちが出てくるの。米軍の人のための施設やお店で働いて、米軍の人と恋仲になった子達のこと。ハイカラなお洋服着て、後に立派なお屋敷に住んで。それもね、みんな自分が生きるために選んでいったの。

私は米兵の体が大きいのが怖くてそんなことできなかった。だから、ずっと貧しかった。

外国の慰安婦問題あるでしょ?日本にもあったと言われるけど、あれ、強制なんかじゃなくて、みんな志願していったはずなの。時代が変わればその時の想いや考えも変わってしまって、後出しで問題にしてる感じね。間違いなく当事者が自ら選んだ道なのよ。

今のウクライナの話を見てると、あの頃のことを思い出す。心が痛いね。

爆撃を受けるとね、お日さん登ってる時間でもどんより薄暗いの。太陽が見えないの。そしたら、希望とか、明日とかも見えなくなるの。地獄よ。ウクライナが今そんなんだと思うとね…』




初めて、こんなにしっかりした戦争の記憶を聞いた。今までは幼少期に終戦したとか疎開してたとか、戦後すぐの生まれとか。


物心ついてから戦争がはじまり、二十歳で終戦。

しかもそれを覚えてる。空襲の日にちまで覚えてる。


映画や本で見るのとは違う生の声。


子供達も一緒にこのお話しが聞けたら良かった。。。




たくさん話を聞かせてもらって、お礼を伝えると『こんな話、つまらないでしょう?』と。


今、我が家は平和学習真っ最中。その事を言うと『そんな学習しなくても平和が当たり前になる日が来るといいね。』って。



ほんとそのお通りだと思う。