皆様は部活に関する思い出がありますか。
監督に怒られた、友達とバカ騒ぎした等様々な思い出があるかと思います。

そんな自分は中高と運動部に所属していました。

そして先日、中高時代の部活の監督が勇退式を迎えるとの連絡がありました。

丁度自分の親父も定年を迎え、様々な人が仕事としての終わりを迎えるということを、何事にも終わりは来るのだと実感しました。

そして自分はそんな監督をとても尊敬していました。
どこを尊敬していたか。それは学生に対する向き合い方、教育哲学を、です。

こんな経験はないでしょうか。自分の友達、部下が思い通りに動かない。意図に反した行動をしてくる。上司の考えについていけない。様々な場面で相手を否定したい、そう思う瞬間はあると思うんです。

その監督にも、そう思う瞬間はあったと思います。しかしその監督はどんな時にも『肯定の姿勢』を忘れなかったのです。一側面に固執せず、人の様々な側面を見て、評価すべきポイントで的確に肯定をしてくれました。ここが、自分が監督を尊敬しているポイントですが、それは何故なのか。

確かに、人との関わり方において『否定』は必要かもしれません。その否定が当人の姿勢の改善に繋がる場合があるからです。そして、上司は部下へのFB、教育の方法を学びます。

しかし、肯定や褒めについてはあまり目が向けられていないようにも思うんです。その理由は肯定の必要性が不明確であるためだと思います。

肯定の必要性について、自分の考えを述べます。

まず世の中のあらゆる過程に普遍的な正解は無いと考えています。確かに、お金を稼げばそれが正解、子供にご飯を食べさせてあげればそれが正解等、人それぞれの指標は明確な形としてあると思います。これは結果についての正解であります。普遍的ではありませんね。

ですが、安定の道を行くか、夢を追い求めて勝負をするか、どちらを選べば最終的な正解かはわかりません。これが過程についての正解かなと思います。

結局は自分の行動を正解にする!と考える他ないと思うんです。客観的な正解はない。なら自分の行動を正解にしよう。こう考えることで人は成長します。ここでマストな要素が『肯定』であり、人の成長のために『肯定』は必要なのかなと思います。

自分の高校は運動高だったので、一般で大学入試をする学生は稀でした。一般より、スポーツ推薦や指定校の方が安全に大学に行ける、という考えが蔓延っていたためです。

しかし自分は、志したい学問があり、夢があったため、一般入試の道を選びました。正解かはどうかはわかりませんね。

部活の監督には反対される、スポーツ推薦を選べばその時点で進路が確定するから、と思っていました。しかし、監督はその選択を肯定してくれました。自分のスペック、環境の沿わない選択肢であったにも関わらず、です。

人は否定から入る人が多いな、と最近思っています。それは価値観が自分に沿っているか、否かで判断しているためかなと思います。

例えば、ABCの選択肢があったとして、Aを選ぶ人はBCを否定する、そんな人が多いと思うのです。自分はAを選んだとしても、BCを選んだその意図まで理解を深めて、肯定できるような人間になりたいと思っています。

自分に沿わない考えを否定するのではなく、それさえも受容して吟味する、そんな広い視野を持ちたい、持てる人になりたい。そうやって自分の思考を深めていきたいと思います。

険しい道ではありますが、今後も精進していきたいと思います。