広島県尾道市の歯医者さいだ歯科医院の齊田健一です。

 今年は終戦81年であった。12時前からNHK・TVの前にいて12時の時報と同時に1分間の黙祷をした。そのあと天皇陛下のお言葉を拝聴した。そのあと出かけたが尾道西消防署の前を通ったら「国旗」と「尾道市旗」が半旗で掲揚されていた。なんと素晴らしいことかと思ったが尾道市総合福祉センターの前を通った時旗は通常の形で掲揚されており少しがっかりした。ほかの公共施設がどうだったのかは知らない。でも願わくは全部の公共機関は半旗にしてもらいたかった。

   

 私は戦後生まれであり戦争のことはよく知らない。大正7年生まれの父親は徴兵されマレー戦に出兵していたが戦争のことはあまり私に話してくれなかった。私がかすかに覚えているのは真珠湾攻撃が始まった時刻にはすでにタイ国に上陸をしていたこと。

             

 そしてそこから現在のマレーシア北部を経由して自転車部隊(銀輪部隊)としてシンガポールに向かったこと。そしてシンガポールの英軍基地に攻撃を加えたが要塞が陥落する2~3日前私の記憶では2月11日の紀元節の日にイギリス軍の砲弾が父の近くで炸裂しその砲弾の破片が胸を突きささり重傷を負って野戦病院に担ぎ込まれた。しかし負傷者であふれており1日ほど土間に捨て置かれ、呻き声を出していたとのこと。次の日たまたま知り合いの衛生兵がいて手当てをしてもらい、病室のベットに横たわることが出来たとのこと。さらにその時の破片の一部、長さ1センチくらいのものが肺に残っていると聞かされていた。私が40歳の頃レントゲン写真を見せてもらったことがある。死ぬまで残存していた。ただし火葬したとき父親の灰を見たが見つけることは出来なかった。そしてこのレントゲンを元に後年重度身体障害者に認定され医療費は1回200円の恩恵にあずかっていた。

 傷が回復した後、南方に転戦していた原隊に復帰したが食糧が無く、トカゲやヘビを食ったという話は聞いたことがある。そして無事日本に帰還を果たしたとのことであった。昭和18年に私の母親と結婚して私がこの世に授かった。父親が戦死していれば私はこの世に生まれてこなかった。おかげで我が家では全国戦没者慰霊祭には直接関係しなかったが、私は日本国のためにがんばり、犠牲になられたた軍人、軍属、一般市民には深く哀悼の意を表したい。

   

 なお父親が亡くなった後、実家の片づけをしていたら本棚に中国新聞編集委員、御田重宝氏による現代史出版会、徳間書店発売の「人間の記録 マレー戦」という上下2冊の本があった。1977年10月10日発行である。前編の本の表紙の写真は銀輪部隊の写真であった。

私はまだ読んでいないが父親はこの本を読みながら自分たちの行軍の様子を振り返っていたのかもしれないと思った。

 もう一つ父親が話していたのは昭和20年8月15日の終戦の日の事である。当時両親は久保町にあった日立造船の川端寮に住んでいたが、私の両親とOさん御夫妻が寮を出て向島の宇立にあった安保医院の使用されていない病室を借りて住むことになりその病室を数日前から片付けていた。当時日立造船には米英の捕虜がいた。その人たち数名を借り受けて片付けに当たらせていたが天皇陛下の終戦の詔勅をラジオで聞いてこれは捕虜を働かせることはまずいと思い、すぐに工場へ連れ帰ったということを聞いていた。私の記憶にあるのはこの程度である。

 終戦後81年一度も戦争をしないで平和に過ごしてきたが、果たしてこの平和が永続するかどうかは判らない。日本の東には中国(620発)や北朝鮮(57発)、北側にはロシア(4,400発)、そして東側にはアメリカ(3,700発)といずれも核兵器を持って事あればと虎視眈々と日本は狙われている。少なくとも中国、北朝鮮、ロシアはすでに狙いを定めいつでも発射出来るように準備していると思う。今は兵器を使わないでもサイバー攻撃とかいった超限戦でも日本はやられる。日本が核兵器を持つとなれば国民の多くが反対するであろうし、アメリカも反対に回るであろう。また戦争になったときどれくらい国民が日本を守るために立ち上がるのであろうか?

そうかと言って何時でもどうぞと丸腰でいることが良いのか?私は少なくとも日本国を守れるようにある程度は準備が必要ではないかと思う。願わくはこれからも戦争をしないで済めば良いなと思う。