《 一日、240円時代の悲劇 》

 

  皆さん!!  ヒロポンって知っているの?

団塊の世代でも・・・・お坊ちゃん育ちには、解らないだろう。

 

 ビートたけしの時代でも・・・・・「ポン引き」していしたから知っている。

1840年に新帝国へイギリスが侵略しアヘンを蔓延させた事から・・・・・新帝国がアヘンで国民が狂うと排除する事で戦争になる。

 

 結果的に、1842年敗北し不当とも言える南京条約を締結させられる。

日本にも大正2年( 1913年 )頃には・・・・「アヘン末」として医師の間ではイギリスから持ち込まれて使用されている。

 

 その後、現在も我々の風邪薬の中にもリン酸ヒドロコディン系(リンコデ )の似たような構造の覚醒作用を有する薬が入っている。

 これは、明治18年( 1885年 )ドイツから帰った  長井義吉 博士がエフェドリンへメチル基を加えて合成し明治26年(1893年)  に官民合資で創設した 大日本製薬 で働き研究開発し「ヒロポン」と名前を着けられていた。

 

 
  当時、注射が10本アンプルで82円、錠剤20錠で21円、50錠なら43円だった。
 それからブロバリンやハイミナールと、替わった。
 私は、薬屋で売っていたから良く分かる。

 

 <私が4歳から6歳の頃の話>

 

   昭和28年頃には・・・・・売春防止法も無く帯広の繁華街には売春婦がビッチリ立っていた。

  秋から真冬に掛けて・・・・・サイロ( 牛や馬へ食べさせる冬季間に保存する為の円筒状のレンガ造りの建造物。) へ入り込んだ寒スズメを父親が捕獲していた。

 

 カスミ網と言って・・・・小鳥などを捕獲する細いテングスり編みで現在は一般での使用は禁じられている。

 

 

 

それをサイロの上部の空気抜きやレントコーンを切り込み入れる窓に仕掛けると・・・・・何百羽ものスズメを捕獲できるのです。

 

 それを大きな豚のエサを煮る鍋にお湯を沸かし生きたスズメを入れて皮を剥くのです。

 

幼い私には・・・・・そのスズメ達がお湯で死んで逝くのを観るのが辛くて堪らなく現在も記憶から離れない。

 

 その皮を剥かれたスズメを父親が私を運搬車(自転車よりも荷台も大きく骨組みも太い。) 後部荷台へ乗せ・・・・・約10キロの帯広市内繁華街へ薄暗い夕方から向かうのです。

 

 父親は、「ちどり」と言う屋号の居酒屋へ入って酒を飲み・・・・私は、古い新聞紙に約30羽の皮の剥かれたスズメを持って「焼き鳥屋」を廻るのでした。

 

  帯広の秋口は、夕方でも・・・・零下5度とかと下がりマイナス20度が普通でした。

 

 その中を「スズメ足りますか?」と、各焼き鳥屋を廻るのです。

その頃に「こまどり姉妹」が焼き鳥屋へ流しで唄って廻っていて・・・・・私へ手を暖めてくれて、大きな1000円札を渡してくれたのでした。 

 

 当時、一日働き240円の時代ですよねぇ~。

 

 それを父親へ渡さずに・・・・・帰ってから母親へ何度か渡しました。

 

でも、見つかりってから必ず帰りには父親から調べられて・・・・・トボトボと朝方まで掛かって家に戻りました。

 

 父親は、スズメを売って得たお金で・・・・昼過ぎまで帰りません。

朝方の雪道は・・・・・・零下30度近くになると凍った雪や氷の固まりが「カラン、カラン」と鈴の音のように泣きました。

 

 その音で・・・・その日の冷えている温度が解るようになるのですよ!

 

 秋の霜が降りる頃には・・・・・深夜の月夜の日に、「豆落とし。」と言って小豆や大豆、テボウ、金時、うずら等の色々な収穫した豆を鞘の柄から外し豆にするのです。

 

 畑に、50メートル四方以上も有る「マーフ」と言う南京袋を繋ぎ合わせた広い敷物を広げます。

その敷物の中央に・・・・・畑から乾燥させた色々な豆を順番に持ち寄り置いて措きます。

 

 学校のグランドで地ならしするコンクリートの「ドンコロ」と呼ばれている思い円筒状の物を・・・・・・馬に引かせて、鞘の柄着き豆を潰すのです。

 

 それによりマーフの底へ豆が弾けて落ちて・・・・・その後で、豆柄を除き豆を回収するのです。

しかし、その豆には沢山の細かい豆柄クズが入っているから・・・・・「とうみ」と言う機械でゴミと豆を分けるのです。

 その分けた豆を・・・・吹雪で学校へ行かれない日には朝から夜遅くまで「良い豆と悪い豆」と分けて南京袋約60キロ(四貫) に詰めて納屋に仕舞うのです。

 

  こんな北海道の幼い頃の酪農家の思い出も・・・・辛い思い出も多いけれど、逆に些細な事でも嬉しい思い出もある。

 

 ヒロポン中毒患者の売春婦から・・・・梅毒患者の子供から色々と観て来ました。

 

 

 もしも国策で優勢保護法を制定して強制的にでも・・・・堕胎しなければ梅毒感染したりヒロポン患者が産んだ精神異常者が蔓延していた。

 

< 手足や身体に豆粒大の腫瘍 >

現在のような健全な国民は無かったろう。

 

 

 < 梅毒患者の顔 >

 我々は、その戦後の売春防止法が昭和33年に制定されて売春を禁止されるまでの経過を・・・・観て来ているのだ!!

 

それを・・・・国家に損害賠償だって?

 堕胎されたから生きられたのに‼️

 

 これら堕胎させられたのは・・・・・当然で、大半が奇形児の可能性が強いからなのですよ!!

 

 私も公務で爆弾処理機を考案し訓練指導していた時に・・・・・同僚から操作ミスで被曝させられた。

 

 

< 昭和49年開発の遠隔操作爆発物処理機 >

 本来なら、国家損害賠償訴訟し、被曝からの生涯生活保障をされるべきでした。

 

  しかし、母から勤めてられ「お世話になっている職場を訴える事を辞めて・・・・・その替わりに高層マンションを新築し、私の治療生活など生涯の生活保障をする。」 と、諭されたのでした。

 

 本来なら爆発物処理機でも警察や自衛隊では・・・・一切勝手な開発機器など製造を許されていません。

国会での議論を経過し・・・・可決され予算を組むべきなのです。

 

 私は、大半自腹で・・・・違法にも当時の隊長指示で処理機を設計製作しました。

 

 被曝してから・・・・・正常な勤務も身体が放射線から辛くて、激務に堪えられなく悩みました。

  警察組織を守ろうと・・・・・依願退職ですよ!

 このように・・・・・今だから真実を明かせる。

 

 このように歴史って、その場の都合よい方向へと・・・・一部のズルイ人間により歪められている。