幕府陸軍は大きく分けて文久、元治、慶応と3度軍装が変化しました。

歩兵組は文久2年の創設当初、禄高に応じて旗本から供出させた兵賦は韮山笠に筒袖、段袋、草鞋を履いて歩兵刀を差したいで立ちに始まり、

元治年間の頭巾、筒袖、洋式襦袢、段袋、草鞋を履いた出で立ち

 

そして洋式軍服が制定された慶応2年の出で立ち

西の丸下、大手前、小石川、三番町それぞれの屯所を示す屯所記号の入った兜頭巾、背嚢、胴乱、ラインの入った7つボタンのマンテル、ズボンを履いていて、さらしを巻いて歩兵刀を差しています。

兜頭巾と呼ばれる歩兵の陣笠は練革や和紙で作られたものが現存しているほか、ブランケットを収納する筒や銅製の水筒が見つかっています。またランドセルにつけられた入れ物と類似する物が見つかっていますが用途はよく分かっていません。

文献に頭巾と書かれている被り物は小筒組や徒歩が被っているような頭巾ではなく、フランスやオランダの植民地軍で被られる日覆い付きの帽子を模したような形です。韮山頭巾と書かれることもあるようです。

特に横浜の警護にあたっていた歩兵は少し待遇が異なっていたようで打ち刀を差しています。

 

その後、伝習隊とともに江戸を脱走した第7連隊の歩兵のいで立ちが大鳥圭介によって記録されており、韮山笠を被りランドセルを背負って草鞋を履いていたことが書かれており概ねこの格好で函館戦争を戦ったと思われます。

 

建テー手銃 右手を中央のバンド付近に添える。

 

騎兵二備へ

着ケー剣