Keith Jarrett  ~The Köln Concet~  1975

 

 

 

 

 

 

さて、仏教伝来地碑のあとは、『磯城島金刺宮伝承地』へ向かいます。

川の反対側からお馬さんが見えたのでここかと来てみるとまったく違いました。

これは飾馬と言って、『遣隋使小野妹子が隋国の使いを伴って帰国したとき、推古天皇が飾り馬75頭遣わして出迎えた』故事にちなんで建造されたものです。

 

 

 

当時の馬は貴重品ですから、現在で言うとベンツが買えるくらいでしょう。

豪勢なものです。

 

 

 

さて、金刺の宮はどっち?。

 

 

 

ここでした。

知っていないとちょっとわからないところです。

藤原京ができる前は、歴代の天皇が好きなところに宮を構えて政務をとっていたので、〇〇宮跡の伝承地が県内にいろいろ残っているのです。

この『金刺宮』は欽明天皇によって営まれた宮で、地名の『磯城嶋』は初瀬川と粟原川に挟まれた一帯を指します。

 

 

 

当時、地方豪族の子弟が上京して欽明天皇に仕え、郷里に帰る際に『金刺』の苗字を賜ったと海音寺潮五郎の本に書いてありました。

諏訪氏が有名ですが、伊達政宗の重臣片倉小十郎、剣聖上泉伊勢守信綱、などもその子孫にあたるそうです。

『金刺部』は、朝廷に馬を供給する役職ですから、馬の繁殖や育成を行う軍事力のある有力豪族のエリートを手なずける狙いがあったのかもしれませんね。

 

 

 

人間のあるところないところ歴史ありですわ。

 

 

 

大和朝倉駅近くまで来ました。

最近全国に複数ある地名には旧国名や会社名などを冠して駅名を改称しているため、『朝倉』が『大和朝倉』となっています。

近鉄に乗って越前朝倉と間違える大阿呆はおらんでしょうに。名称が増えすぎて時刻表を調べるのにかえってわかりにくい。

路線ナビで、いちいち『大阪難波』とか『近鉄名古屋』などで検索しないと他社線の乗り換えがわからないのです。

まあ目くじら立てるほどのことではありませんが・・・🐳

 

 

 

ここからふたたび街道を桜井駅へ戻ります。

宇陀と桜井を結ぶ忍阪(おっさか)街道です。

 

 

 

ヤマザキパンもフジパンも夢の跡。

ミニスナックゴールドやサンミーはスーパーへ買いに行きましょう。

 

 

 

私くらいの年代にはちょうどよいノスタルジーですね。

 

 

 

多武峰街道への分岐の辺りでポツポツと来ます。

気の早いことですな。

 

 

 

ここからは談山神社へ行く道です。

大職冠藤原鎌足公をご祭神とする談山神社。

土着の奈良人はざじずぜぞの発音に言語障害があり、『だんざんじんじゃ』を『だんだんじんだ』と発音します。

奈良人狩りの際に有効な判別法です。

くわばらくわばら。

 

 

 

えらい降ってきたがな。

天気予報にダマされたな。

 

 

 

ここで最後にしましょう。

磐余権桜宮伝承地。

第17代履中天皇が作ったと言う磐余(いわれ)池があったとされているところ。

二上山でお休みになっている大津皇子の辞世、

 

ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 

の磐余池ですが、所在地については現在の橿原市池尻町とここの両説があるそうです。

池尻町と言われるくらいだから磐余池の端にあったことが地名の由来かと思っていたのですが、調べてみると『益田池』のことらしいですわ。

築堤のあとが見つかったとか古文書の記述がどうだとか、いろいろあるらしいですがどちらも決め手がなく、磐余池の所在は不明です。

 

 

 

桜井駅へ戻ります。

 

 

 

 

 

「ということでお昼はスシロー行こか」

「私あさりラーメン食べる」

「味の素味のラーメンやな」

 

 

 

「山登りの代わりにローストビーフマウンテンや」

「田舎のスシローはお肉の盛りがいいわね」

「奈良県人でよかったな」

 

 

 

「実は近鉄大阪線を境に南北で人種がちがうのやぞ」

「でたわね、差別人間」

「柵でも立てるか、けけけけ」

 

 

 

 

 

蜘蛛の巣を払つても読めない碑文

 

吉田さんばかりの通り釣忍

 

輪唱が苦手御陵のひきがへる

 

 

おそまつさまでございました。