「君子の交わりは淡きこと水の如し」

 夫婦関係、親子関係でも淡い付き合い方が好きだ。

 濃い付き合いになると、一体感が増し、自分と相手の区別が付け難くなり、違いを尊重できなくなり、自分の所有物であるかのように思ってしまう。それが愛情の深い印だと錯覚してしまう。
 そして、相手が自分の意志に反したことをすると、一体感が壊されたと思い非難することになる。
 子供を自分の所有物であるかのように、子供の意志を無視して、自分の夢を子供に実現させようとする親をよく見かけることが出来る。

 これでは個人の人格の尊重が無視されることになるので、私は濃い交わり方を好まない。

 イエスキリストも、「私が来たのは、家族の絆を深めるためではなく、むしろ、家族の絆を断ち切るために来たのである」というような意味のことを言って、夫婦であっても家族であっても、個人の人格を尊重することの大切さを説いている。

 本当の愛とは一体感が強くなることではなく、人は人を所有できないという意識を絶えずもって、相手の人格を尊重することだ。

 夫婦関係、親子関係、友達関係ばかりでなく、国民感情においても淡い交わり方が好きだ。

 日本国民を意識するより一人類をより強く意識する。インターネットの普及で世界中の人が自由に交流でき、意見を発信できるようになった今、国境意識はますます薄れている。人類のあらゆる活動が地球規模で考えないと上手くいかなくなっている。
 企業も労働者も学生も、国内だけを見て意志決定していては満足な結果は得られない。

 国と濃い交わり方をして一体感、国家意識が強くなると、他国への憎しみを煽ったり、戦争のような馬鹿な決定を国がしても、それを批判する立場が保てなくなるので、あくまでも淡い交わりで、個人の人格を犯されない立場を保ちたい。

 「和を以て貴しとす」と言えども、一体感によって一色になることで出来る(本音はともかく建て前としての)和ではなく、個々の違いをお互いに尊重することによって保たれる和が好きだ。

 私は賢く人生を送りたい。それには「淡い交わり」が一番。

 時には、一体感を愛と錯覚している人達から「薄情者」と言われようとも、あるいは戦時中のように国賊と言われようとも。