そんな和宮を写した “ 唯一の写真 ” と言われてきたのが、↓画像の和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折に、小坂家の写真師が撮影したものである。
と・こ・ろ・が…
2011年7月号の『 歴史通 』内の「 古写真探偵 皇女和宮の真実 」という記事(古写真研究家の森重和雄氏による調査)によって、明治35年2月発行の雑誌『 太陽 』の口絵「物故諸名士」に、“ 和宮とされる写真と同一もの ” が “ 別人の名前で ” 掲載されていたことが発覚!
実は和宮とされた写真は、大和郡山藩の最後の藩主・柳澤保申の正室であった『 柳沢明子さん 』であったことが判明したのです。
柳沢明子さんは、公卿左大臣一条忠香の二女(弘化3年10月23日生まれ、明治35年1月8日死去、58歳)で、明治天皇の皇后(一条美子)の姉にあたります。
この真偽については未だ議論されているそうですが……たぶん写真は、和宮ではなく柳沢明子さんで間違いないでしょうね
いくら輿入れ道中の最中の撮影だったとはいえ、皇女である和宮が、正装もせずに小袿姿という(公家の女性の)普段着の格好で写真を撮らせたとは思えない。
第一、寒い季節に輿入れした和宮がこんな簡素な服装をしていたのもおかしな話です。
和宮の写真は実は一枚も残っていなかった───というのが本当のところでしょうか
ちなみに、ネット上で『和宮』と検索すると↓の画像の写真が一緒に出てきます。
この写真(画像)は和宮ではなく、有栖川宮熾仁親王の妃・溝口薫子さんです
有栖川宮熾仁親王が和宮の元婚約者だったので、その妃であった薫子さんの写真を誰かが和宮と思い込んだのでしょうね。