今回は、今川時代の駿府を訪れた連歌師谷宗牧、公家山科言継、連歌師里村紹巴です。

 

 この三人は大河ドラマ「直虎」の時代に駿府を訪れ、平和で文芸を愛好する駿府の様子を記録に留めました。宗牧は『東国紀行』、言継は『言継卿記』、紹巴は『富士見道記』を遺しました。いずれも貴重な史料です。

 

 今川家中が和歌のたしなみが深かった、と言う事をもって今川家が惰弱であるとか、文芸に溺れて家を滅ぼしたとかいう批評がされる事がありますが、偏見です。

 

戦国時代の名だたる武将やそれなりの地位に上った人々の多くがかなり深く和歌を学び、歌を詠んでいます。

 

 徳川家康は冷泉為満から古今集の講義を受けていますし、豊臣秀吉も今回取り上げる里村紹巴からも歌を学んでいます。武田信玄も数多くの和歌を遺しています。

 

 戦乱の時代にあっても、力づくで押さえつけるよりも高等な統治の一環として人の心を結び付ける文芸が奨励され、戦国武将にとって文芸は朝廷に接近する手段の一つでした。

 

 また、和歌のたしなみは武将たち本人にも血で血を洗う殺戮からの心の洗濯にもなったのでしょう。

 

 背後を武田、北条の二大同盟国に守られ、今川仮名目録による先進的な法による統治が行われた駿府は戦国に出現した平和郷でした。駿府には戦乱を避ける多くの公家や文化人が集まり、東の京とも呼ぶべき活況を呈したようです。

 

 大河ドラマ「直虎」は戦国に一瞬の光芒を遺した今川家の小京都駿府と、井伊家の井伊谷が時には手を結び、時には対決しつつ戦国の世に翻弄され、破壊と再生を遂げるドラマでもあります。

 

 では、連歌師谷宗牧、公家山科言継、連歌師里村紹巴について見て行きましょう。

 

 谷宗牧は、駿河国島田出身の連歌の宗匠宗長の弟子で、京で連歌の宗匠となった人です。晩年に東国へ行く事を思い立ちました。天文十三年(一五四四)十二月に井伊谷で小野和泉守(政直)の屋敷に立ち寄った後、駿府に行き、今川義元に会いました。

 

 大河爆死(三)直親の記事でも書きましたが、宗牧は井伊家を揺さぶる大事件に関与していた疑いが濃厚です。

 

宗牧が義元に会った直後に直親の父直満と弟直義が駿府に呼び出され、謀反の疑いで切腹させられているのです。

 

義元に会った宗牧は何事かを「そと申し入れて、やがて退出」したと言います。

 

 宗牧は井伊谷滞在中に何か聞いてしまったのかもしれません。

 

江戸時代の史料は、直満と直義の切腹は小野和泉守が直親と直虎の婚約を嫌って讒言したとしています。

 

 前に書いたように、直満が連歌会の場に出て余計な事を言ったのかもしれません。

 

 ひょっとすると、直虎の父直盛さえも小野和泉守と共謀して直満を片づけたのかもしれません。直盛は宗牧を自らお迎えして、小野和泉守の屋敷での連歌会にも出ているのです。

 

 この事件をどう描くかが、大河ドラマ「直虎」の見所の一つになるでしょう。

 

 次に取り上げる山科言継もまた異彩を放つ人物です。

 

 言継は朝廷では装束に関する故実や笙の専門家ですが、副業として医術を極め、身分の上下を問わずいろんな人を診療しました。

 

 朝廷では地方に出向いて織田信長の父信秀や伊勢の北畠具教、織田信長から献金を受けるなど、資金調達で活躍し、正二位権大納言にまで登りました。信長との親交も深かったようです。

 

 山科家は代々詳細な日記を遺しており、『言継卿記』と息子言経の『言経卿記』は戦国時代の貴重な史料です。

 

 山科言継は弘治二年(一五五六)九月から弘治三年(一五五七)二月まで駿府に滞在しました。言継の養母黒木の方が寿桂尼の姉で、駿府に住んでいたので、言継は今川家への朝廷への献金依頼も兼ねて、養母に会いに来たのです。

 

 今川家にとっても縁者だった言継は歓待されたようです。社交的な言継も義元や氏真、寿桂尼はじめ今川家中の人々に会って大いに交流しています。

 

 ちなみに、『言継卿記』はいつもは他の事を書いた反故紙の裏に書かれてたそうですが、この時期はきれいな紙に書かれていたそうで、駿府の豊かさと言継への厚遇が想像できます。

 

 言継は張り子の人形を作る特技&趣味があり、寿桂尼や、寿桂尼の孫で駿府に来ていた北条氏規、寿桂尼の孫で氏真の正室早川殿などにプレゼントしています。

 

 言継は今川家の歌会にも招待されました。弘治三年の今川家歌会始めが氏真の屋敷で行われたので、この頃には氏真が今川家当主となっていたと考えられています。

 

 言継は徳川家康の周辺の人物にも会っており、それを読むと、家康や松平家が今川の圧政に苦しんでいたとも思えなくなります。

 

 言継は井伊家関連の人物との交流については記録していませんが、駿府の様子を活写する言継の駿府下向を大河ドラマ「直虎」の一コマに入れてもよいと思います。

 

三番目に登場する里村紹巴も連歌の宗匠となった後、駿府に下向しました。紹巴の下向は永禄十一年(一五六七)、今川家が武田と徳川に攻められる一年前です。

 

 紹巴は桶狭間を通る時「おだしからぬ」と書いたり、雪斎ゆかりの人物と会って雪斎の薫陶を感じると書いたりしていて、今川家に好意的です。

 

 紹巴の目的は富士山を見る事で、駿府が目的地でした。駿府では今川氏真から度々招待されて連歌会を開き、駿府を好意的に描いています。

 

 紹巴は七月ごろまで駿府に滞在してから京へと戻る旅路に着きましたが、途中井伊谷付近の引佐で山村修理亮と言う人物に引き留められて、連歌興行をしています。

 

 この山村修理は、堀川城に立て籠って徳川家康の遠江侵攻に立ちふさがった気賀一揆のリーダーの一人ですが、今川家とも関係が深かったと思われます。

 

 このように、連歌師谷宗牧、公家山科言継、連歌師里村紹巴は戦国時代の駿府や今川領内の様子を活写しており、軍事政治一辺倒の戦国ドラマではない、文芸や生活まで見せる大河ドラマの深化にはうってつけの材料です。

 

 宗牧や紹巴の事例で分かるように、文芸は駿府と井伊谷をつなげる役割を果たしたと思われます。今川家が力づくで井伊家を押さえつけるという理解が安直であることが分かります。

 

 こうしたマンガや通俗小説が取り上げない戦国時代の日常、しかし歴史認識の上での重要な要素も取り入れる事で、大河ドラマは骨太で見ごたえのあるドラマになると思います。