相楽山椒あれやこれや

相楽山椒あれやこれや

食えない小説家として普段のあれやこれやを書き綴る備忘録的日記

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人、モノ、食べ物、あらゆるものに人は「好き嫌い」の意思を示しますが、そのことについてどれだけ深く考えているだろうかということについて語ってみます。

ある女性が新入社員として働き始めた頃、定年も間際の60代の女性いわゆる「お局様」と呼ばれるような女性上司と仕事をすることになった。職務は技術職で、新入社員の彼女は当然それをうまくはできないため、上司であるお局様に教えを請うことになる。
そこでお局様が意地悪をしてうまくできるように教えないというほど陰湿ないじめがあるわけではなく、快くはあれこれと仕事を教えてくれる。
仕事に就いて半年が過ぎある程度の日常業務はつつがなくこなせるようになっていたが、彼女自身もキャリア30年超のお局様に比べると自分が一人前に仕事が出来ているとは言い難いため、多少の不満はあれどお局様の言には従っていた。

ここまでは誰だって似たような経験はあるはずです。

ところが彼女はお局様の人間性の端々には不満があると言う。端的に言えば嫌いだと。
比較的サバサバした性格の彼女にとっては女性特有の粘着質思考が常々苦手で、事あるごとにそういった女性たちとのあいだで齟齬を生じていたため、自己反省も踏まえて「それ以上関わらない、考えない」という諦めモードで接してきた。だから今回もそうすると決めたのだといっていた。

ところがその数ヵ月後、その彼女から出た言葉は意外なもので、「好きか嫌いかと言われれば嫌いだが、そういう感覚では見なくなった」と。

彼女自身に何か変化があったのかと訊いてみると、資格を取ったそうだ。つまり技能資格というやつです。それにより自信がついたと。

少し話は外れますが、女性はよくこういう話をします。
女性ばかりで集まると得てして話題は日々の流行や不満などとりとめない話題に集中しがちで、それだけならまあ可愛いものだと思えるのですが、こと彼氏や旦那の愚痴をはじめると「そうそう、そうなのよ」と同調し始めることが少なくない。そこに彼女のような女性がその意見に異を唱えると一斉に白い目を向けられる。

「だってあなたはできるから。うまくやれるからそんなことが言えるのよ」と。

つまり彼女は何を言ったのか?

「愚痴言っている暇があれば改善すればいいじゃない」

端的に言うとそういう意見です。

どうも女性はそのような言葉にカチンとくるようです。一斉にハミられたそうです。

女性は同調意識を重視します。それが世界でうまくやるための方法論だからです。力で押し切るという方法をしないことは女性の魅力でもあるのでしょうが、個人の立脚性が失われることも多々あるでしょう。求心力がないとも言えます。

ライオンの群れというのは一匹のオスに対しメスが数頭群れてひとつのハーレムを作ります。狩りをするのも子育てをするのもメスでオスは基本的には何もしません。しかし、群れからオスがいなくなると一斉にその群れは離散してしまいます、あるいはほかの群れに吸収されたり襲われたりします。

これを動物学的にかどうかはわかりませんがどう説明するのかというと、オスの役割は「秩序」を守るという重要な役割を持っているとするのだそうです。

俺は別に男性優位主義ではありません、ただ役割はそれぞれあってしかりとは思っています。性差もあれば得意不得意もあると思っています、だから平等で同じであるなどとは思いません。男女雇用機会均等法があれど、あんなものはパフォーマンスであり、本当にそんなことができるなら、ラウンジや風俗に行っておっさんが相手になっても文句が言えなくなります。

好きか嫌いかという話に戻します。

当の彼女は資格を取ったことにより心境が変化しました。それはなぜか?資格を取ることによって自信がつき優越感を得て小さなことが気にならなくなった。

そういうふうにも解釈はできます

しかしもっと本質的に彼女が感じたのは、その職業の技能に関して「より深く関わること」ができたからではないでしょうか。かたやキャリア30年超の現場で働いてきたお局様と、自分の格差は埋まらずとも、同じ職場で別の方法論で職能を高め実践に活かすという意識が彼女とお局様の格差を意識外に置くことに貢献したのではないかと思われます。実際にキャリアの格差というのは端々に出てはきます。しかし、それが人間性の格差にはつながらないことは事実です。

自分だって自分なりにがんばって資格を取った、そういう思いと30年現場で働いてきた自分という自信を持つお局様とリンクするところはないでしょうか。

俺はこういう気持ちの重ね合いがひとつの理解だと思います。

理解ができなければ認めることもできません、想像することもできなければ理解をしようともしません。だから好きだとかきらいだとか思ってもその先に踏み込めなければ単なる戯言で終わってしまいます。これはもったいないことです。

俺は好きだとかきらいだとか思ったら必ず考えます。特に嫌いだと思ったときは深く深く考えます。普通は嫌いなものに対してそこまで考えたくはないでしょう。
だけど考えなくては自分は馬鹿の独り言を言うことになると思います。

嫌いだと思うとまず相手のことを考えます

なぜ相手はあのような行動をとるのか
もしかするとこう考えるからではないか
自分はそういう考えはあるだろうか

そういう一連の想像を巡らせます。
その中で理解をします。
ここに感謝や感激などはありません、自分とは違う考えを持つ人間と相対するときの儀礼的な考察に過ぎません。

だから私はあの人が嫌いなのだと思ったのだ。
私はああいうことが嫌いなのだ。

そういう俯瞰視点で自分を見ることができればひとつ前に進めます。
そこから相手のことを認める作業を始めます。
認めるというのは何も良いことばかりではありません、悪いようにも認めるのことはあります。
そうすることで、ひとつの明確なビジョンが浮かびます。

それは相手と自分の関係性です。

そしてどうすればうまく、相手にも自分にもストレスを与えず感じずに付き合えるのかがわかるようになります。

簡単に整理しますと

感情の発露→ 想像(疑問)→ 理解(考察)→ 認識

ということです。実はこの一連の流れこそが人間関係全般、ひいては男女の愛の形にも関わってきます。実はみなさんが夢中になる連ドラや映画を見ても全てこの形で作られています。

いきなり話が難しかったかもしれませんが。一つわかりやすい喩えをおいてこの話を締めくくりましょう。

ピーマンが嫌いだという人がいて

ピーマンを食べて自分がまずいと思ったから嫌いだということと。
ピーマンを食べて自分がまずいと思うの美味しいという人がいるのはなぜだろう。

この違いが人格の形成に大きく関わってきます。本質的に物事を見るということは、何も好き嫌いがあってはいけないということではありません。

ピーマンは嫌いだが、認められる。

どうでしょうか、あなたは嫌いなものでも認められますか?
今となっては禁句というか多分使ってはいけない言葉なんだろうなと思われるのが

「健全な魂は健全な肉体に宿る」

ローマの詩人、ユウェナリスの言葉です。

ま、ひねた俺はすぐに、「不健全な肉体には不健全な魂が宿る」とすり替えるのだが、ならば生まれつき体が不自由な人には健全な魂は宿らないということになる。

スポーツの世界で一昔前ならこういう言葉を先輩諸氏が吐いて下々の若輩者を指導していたものだが、根性と自己犠牲がエネルギー源である日本人にはかなりフィットな言葉であったと言い換えることもできる。

例えば剣術試合があったとして、弟子負けて師匠に叱咤されます。

「根性が腐っておるから貴様は勝てぬのだ」
「貴様は心が負けておる、だから勝てぬのじゃ」

つまるところ精神論なんだけど、こう言う叱り方ってずるいよなって思う。日本人がこれを言われると、「ああなんとなくわかる」と納得がゆくのだが、そもそも霊的思想のない欧米圏では根性とか精神修練とか意味がわからんので、戦前戦中の日本の国をカルトだと見ていたわけです。

実際剣術試合になると、武人が武芸に優れているに越したことはないのだが、ルール無用であればあるほど、ストリートファイトの斬り合いなんかだともちろん、それよりも生きる、勝つ、倒すという執念の方が大事であり、実際に試合開始とともにいきなり伏せて相手のすねを切り、倒れたところに止めを刺すという戦法があったそうだ。まあ不意打ちやね。

これを汚いと取るかは微妙なんだけど、正統派ストロングスタイルの武人からすれば「卑怯」であると言うだろうが、同じ武人でも戦国時代真っ只中の兵隊からすればどんな手段を使っても勝てばいいのであり、自分が死ぬか相手を殺すかの二者択一しかないわけで、そこにサムライの美学が入り込む余地などありまへん。

つまり、勝者がえてして正しく潔く正義であるというのは『勝てば官軍』という言葉があるだけに必ずしも正確ではないことは昔から判っていたことです。
それを嘆いたのがユウェナリスという詩人で、原文は

「健全な魂は健全な肉体に宿るといいのになぁ」

または

「健全な肉体には健全な魂が宿るべきだ」

ということになっております。

それがイギリスの哲学者により、冒頭のような文にいい変えられてしまい、日本人はそれを直輸入してしまったわけです。

で、あるから、スポーツをしているような人はさわやかで健全で曇りも闇もない人格を持ち合わせているかのような錯覚に陥りがちで、昨今の日本の中でもスポーツというものは大変もてはやされており、ニュース番組枠内であれほどのウェイトを占めても成り立っております。

だが実際は、今回の桜ノ宮高校の暴行自殺事件に端を発する体罰問題は常にスポーツの世界には付きまとってきたもので、けしてスポーツ=健全ではない。健全と思うのは思いこみたいとも言えるが、多くはそのスポーツに関わっていない外部の人間の幻想であるし、目的はその栄誉だけであるという無形の褒美に向かってまい進する姿が人々の心を打つためであります。

普通人は目的がなければことを起こさない。その目的とは古くに答えを求めれば「生存」で、そのために狩りに出る、畑を耕すということをする。自身の肉体の疲弊の対価は食料という形になって戻ってくる。現代になぞらえれば会社で働いて賃金を得て生活を維持するというところですな。
ところがスポーツというものは肉体と精神を酷使し何も作り出しもしなければ生み出しもせず物理的には消費と浪費のみという大変無駄な行為をすることになる

ではスポーツとは一体何なのか、何のために開発されたものなのか。

俺が思うに、スポーツとは『ある一定のルール内で達成感や勝負心、勝利感や敗北感、あるいは協調性や協力関係を実感したり養ったりすることにより、実環境で効率よく生存するための訓練装置』であると言えましょう

ところがユウェナリスが嘆いたように、その訓練装置で良い成績をとったものは実生活における人格までもが成し遂げられたものであると錯覚し、実績のあるスポーツマン=偉業を達成した人格者となってしまっているのが現実であります。

だから成績を残せない奴は努力を怠ったもの、として罰を加えられる。そして「人格者」は罰を与える権利を有する、と。
何もスポーツの存在意義を否定している訳ではない、そしてそれにまい進する者を愚弄している訳でもありません。ただ、スポーツが得意なだけで、必要以上に他人を貶めるのはいかがなものかと思うわけで、所詮シミュレーターで高得点が取れていたとしても実践で認められなければアホかと言われるだけで、いい加減そのあたりに気づいてはどうかと思うわけです。

この桜ノ宮高校の事件を皮切りに各スポーツ団体での刀狩りならぬ体罰狩りが拡散し、柔道界などは上層部の首切りが行われてしまいました。少し前では相撲でも同じようなことがありましたが、俺は体罰が悪いとは思っていない。
悪いのは、体罰を行う者の精神性で、少なくとも痛めつけるほど何度も繰り返すというのは単なる暴力であり、やったことがあるものなら判るだろうがまともな人間なら実際他人を殴り続けるというのは試合でもない限り精神的にも苦痛なことで体力も相当使う。それを日常的にできるというのはもはや「馴れている」というなかで自身がどういう立場でいるのかを忘れてしまっているという証拠であると思います。

しかし、現況のように肩に触れただけで女子社員からセクハラで訴えられるような時代で、今度は頭をはたくだけでパワハラだ体罰と訴えられる時代が到来する。
既に教師が表向きの教育内では体罰をしないことは当たり前になっている。子供個人にとってはいい環境なのかもしれない。
それが将来的にどういった恩恵をもたらすのか、あるいは単なる害悪となるのか今の我々にはわからない。

ただ、現在すでに何らかの組織に所属している人々なら感じてはいるはずです。
今の若い奴は怒られるとすぐに逃げ出す、辞める、諦める、と。
だから組織側は叱り方まで考えてやらなくてはいけないというジレンマに陥っているということを。
ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(ライフ・オブ・パイ/トラとひょうりゅうしたにひゃくにじゅうななにち、Life of Pi)は、ヤン・マーテルの2001年の小説『パイの物語』を原作とした、2012年のアメリカ合衆国の3D冒険映画である[3]アン・リーが監督し、デヴィッド・マギーが脚本を執筆し、スラージ・シャルマ英語版が主人公のパイを演じる。

インドで動物園を経営していた一家が新天地を求めて動物とともにカナダに移住を決め、日本船で太平洋を北上するが、海難事故に遭い、息子の16歳の少年パイが人間では唯一の生存者となる。彼はライフボートでオランウータンハイエナシマウマベンガルトラと過ごすことになる[4]
(Wikipedia)

観てきた。予備知識なく宣伝だけを見て。
俺はさほど頻繁に映画に行く人ではないので、映画を観ようと思った時が観時というか、いつでもタイミングの問題なのだ。
ロードショーを逃すとテレビで放映するのを待つという悠長なこともしなければましてレンタルなどもしない。だいたい、そういう作品が合ったことすら忘れてしまう。

だから、観たいと思った時に観ておかないと一生観ない恐れがある訳。

そんなわけで、観た。手近な映画館でやっていたので2D仕様。

つ、つまらん。面白くない。見所がどこにあるのかさっぱりわからんかった。
別に権威主義ではないが、なんでこれがアカデミー賞にノミネートされてるんだ。

妻とかなり不完全燃焼で帰路について言葉少なに映画の酷評を。
話がこれだけつまらんのだったら、せめて3Dで映像だけでも満足して帰ればよかった。

俺は今まで実は3Dの映画というものを観たことがなく、家電のテレビコーナーにある3Dテレビを観ていても“ペラペラの画面が多層に動いている”ようにしか見えず、3Dってこの程度のモノなのかと思って馬鹿にしていた。というか、奥行きは感じるものの人工的に作られた奥行き感で、とてもじゃないが画面の奥に現実のビジョンが浮かぶ感覚ではなかった。むしろ不自然と。

次の日、あまりにも納得がいかなかったのでネットで評判を検索してみることにした。さぞこきおろされている作品であろうと。

ところが、おおむね評判は良好、絶賛とまではいかずとも私のような感想を持っている人はいない。そもそもどこか観ている視点が違うという印象をぬぐえず、自分の中で?が浮かぶ。

あれ?何か俺間違ってる。

恥ずかしいことにこの段階に来て自分が物語の主題を完全に履き違えて観ていたということに気付き始める。
俺はこの映画を「虎とボートという限られた空間でいかに過ごし生き残るかというサバイバル」を描いたものだと思っていた。実際そのような気持ちで映画館に足を運んだのだ。

だがそこには冒険も驚愕も興奮も感動もなく、虎と分かち合い友情や愛情が生まれる訳でもない。ただただ洋上での虎との生活がつづられるのみ。絵的には面白いが、それだけであるしだいたい副題がついている映画はつまらないと相場は決まっている(と、いままでの経験で感じていた)冒頭も時間稼ぎのような退屈なエピソードで、退屈極まりなく、終了後もエンドロールの途中で退出してしまった。
しかし、今になってみればその期待や発想がいかにチープであったかを思い知らされる。

というのは、結局次の週にもう一度観にいったからだ。
3D観るならIMAXで、ということで隣町まで車を出した。全然画面の大きさが違う!うおお、なんじゃこりゃ、3Dすごいやんけ。ちゃんと飛び出してくる。
冗長な(現在の)主人公の語り口の冒頭部分が重要な意味を持ちそこそれに物語の含みが合ったことに気づく。

俺は、馬鹿だ。

少なからず物語を創作していると自負していた自分がまるでこの映画を理解できなかったことに腹が立った。そしてひそかに恥じた。

結局先週とは打って変わって妻と作品を絶賛した。ここでそれを事細かに説明するのは野暮だと思うので書かないが、美しい画面だけでも価値はあると思うし、それぞれ人によって観方は違っていてもいいとは思う。
ただ俺は、起承転結の物語に馴れきった自分が居ることに気づき、改めて自分の内面と対話しながら作品を観るという体験をさぼってきていたのだと思い知らされた。

これは、いい物語です。