「生きていてほしいとおもう温まったポカリを涙と区別できない」

"コンビニに生まれかわってしまっても"
西村曜の歌集から

若かったあの頃、つまらない大人…
西村曜の歌は、そんな自分の思春期を思いださせる。

西村曜は、小樽とか、釧路、それとも盛岡。北の青年かと思った。それは言葉のなかに空気の透明感、冷たい澄んだ空気が感じられたから。ところが西村曜は梅田を歩いていた。

「早春のレモン石鹸弄ぶ手の静脈のやたら浮き出て」

とはいえ、青春はそうした透明感を自身のなかに誰しも持っているのかも知れない。

「一生涯変わらぬだろう父親のメールアドレス setubika の文字」

「半額のおいなりさんを選んでいる父が背中に負っているもの」

親父は何のために生きてるんだ、あんたの背負ってるものは俺か?

そして

「サブウェイの店長として一生を終える他人がとてもいとしい」

サブウェイの店長は、寺山修司の国語教師、そんな気がした。
『煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし』
大人たちは何に希望を持って生きているのだろう?そんなにもありきたりで、つまらない人生が果てしなくつづいていく。そんな人生が悲しくないのか…

西村曜の歌を、人生もほぼ終わりかけている者がよむとそれはJourney to the past.過ぎ去り戻ってくることのない時間が切なく胸に沁みこんでくる。
16歳の深夜、西村曜は、そしてわたしはこんなことを思っていたのだ。。。

「こんな夜はココアに砂糖を入れてやる いまに見ていろ、苦しんでやる」