生物多様性と種子法

 カルタヘナCartagena de Indiasは世界遺産に登録されたコロンビアの歴史都市である。カリブ海に面し、1500年スペイン人ロドリコ・デ・バスティーダスが上陸して以来半世紀に及ぶ抵抗をつづけた誇り高きカラマル人の村だった。
 カラマールは毒矢でスペイン人と戦いつづけたが1533年遂に村は陥落し、ペドロ・デ・エレディアによって征服された。インカ帝国を滅ぼしたスペインはカルタヘナを南米の中心港湾都市として建設を始め、各地で強奪した金・銀・エメラルドをスペイン本国に送る港を建設し、さらにカリブ海と南米の奴隷貿易の中心都市とした。

・生物多様性条約とカルタヘナ議定書
 1999年2月生物多様性条約CBT ExCOP1(締約国特別会議)がカルタヘナで開催され、カルタヘナはパックスイスパニアの歴史都市から生物多様性に関するエポックとして再び世界の脚光を浴びることになった。
 生物多様性条約CBTは、国際自然保護連合IUCNと国連環境計画UNEPが立案し1992年リオ・デ・ジャネイロ地球サミット(国連環境開発会議)で採択された。その目的は三つのもので構成されている。
 1.生物多様性の保全
 2.生物多様性構成要素の持続可能な利用
 3.遺伝資源の公正かつ衡平な利益分配
 生物多様性条約(以下CBT)のなかでカルタヘナ議定書は、生物多様性に悪影響を及ぼすおそれのあるバイオテクノロジーによる遺伝子組換え生物LMOの環境に対する原理的論点としての危険、及び具体的方法としての取り扱い・移送・利用に関する検討が目的だった。そして2003年9月カルタヘナ議定書は発効した。
 なお条約と議定書は親子のような関係にあり、国際的合意として大枠を定めたものが条約であり具体的運用として定められたものが議定書である。

・生物多様性の喪失
 2017年12月15日IUCN(国際自然保護連合)が「絶滅のおそれのある野生生物のリスト」いわゆるレッドリストを発表した。レッドリストによると現在絶滅のおそれのある野生生物は25,821種に及んでいる。
 絶滅のおそれのある種には動植物、菌類などあらゆるものが含まれているが、そのなかには5種のイネと17種のヤマイモ類など、普段作物として利用され人の食を支える重要な農作物が絶滅危惧種となったことは極めて深刻なことだ。

 45億年の地球の歴史のなかで絶滅は繰り返され、謂わばそれは生き物の進化の過程でもある。長い地球の歴史に大量絶滅は三度あったとされている。そのなかで最も近くにあった大量絶滅が6500万年前に起きた恐竜の絶滅だ。この原因はユカタン半島に巨大な隕石が衝突したことにあり地球上の生物の75%が絶滅したと云われている。
 しかし75%が絶滅したと云われる恐竜時代の絶滅のスピードは数千年単位の絶滅であり、現在の絶滅はそれをはるかに上回って一年間で約4万の種が絶滅している。しかもその原因は巨大な隕石の衝突でも、大陸の移動でもなく、私たち人間というたった一つの種が原因なのである。

 今回の小論の中心にある種子の問題でイネやイモなど穀物の原種にあたる野生植物が絶滅に直面していることは重大なことだ。つまり干ばつや冷害、病害虫への抵抗は種の遺伝的多様性が担保しているためである。
 19世紀アイルランドでは主要作物であったジャガイモに疫病が大発生し壊滅的な打撃を受けた。当時アイルランドでは品種改良を重ねた生産性の高いジャガイモをほぼ単一品種として栽培していた。そのジャガイモに植物伝染病の一種の疫病が発生するや瞬く間にアイルランド全てのジャガイモに感染していった。その結果、アイルランドのジャガイモ飢饉ではおよそ150万人の人々が餓死し、この飢饉をきっかけに200万人以上が移民となってアメリカに渡った。

・トレードオフとコスト
 アイルランドのジャガイモ飢饉は、人間が食糧の生産を増大させるために生態系の一部である種子を改変したり管理しようとしたことに始まる。しかし種子を改変したり管理しようとしても全てのことに恩恵が生ずるわけではない。つまりそこには必ずトレードオフが伴う。一つの恩恵を増大させようとすれば別の恩恵が減少し最悪の場合全てを失うことになる。
 一般に生態系が改変された時、或る一定以上改変された場合二度と元に戻ることができなくなる限界が環境には存在する。それが生物的閥値であり生物学的平衡であり、その生態系の衰退の最大要因が人間活動の累積的効果であるということだ。
 それぞれ一つひとつは影響のないわずかな変化のように見えても、それが連続し広範囲に及ぶことで結果として取り返しのつかない累積効果をもたらす。生態系は本来回復力を備えており、これまでかなりの撹乱があったとしても受け入れることができてきた。しかしその撹乱が多方面に渡り連続し長い期間に及ぶことで生態系は回復力を失ってしまう。それが現在であり、レッドリストであり、種の大量絶滅である。

・種子法廃止
 2017年4月国会で「主要農作物種子法を廃止する法案」が可決された。これにより、稲・麦・大豆の優良種子の生産普及を都道府県に義務付けてきた種子法が、2018年4月1日をもって廃止された。
 種子法が制定されたのは1952年にまで遡る。国民の食を守る目的から稲・麦・大豆の三種類に種子の品質を管理し優良な種子を安定的に供給することを都道府県に義務付けた。種子法の下で農業試験場など公的な試験研究機関は、地域に合った遺伝子資源としての「原原種」や原原種から選抜した採取農産物の種子である「原種」の生産普及と種子生産圃場の指定審査を行ってきた。その結果農家は質の良い種子を安く安定的に購入することができ、各都道府県ではコメの代表的品種である、コシヒカリ、あきたこまち、日本晴、つや姫などのように多様な種子が農家に安く安定的に行き渡るようになった。そして種子法の理念の元になっていたものは種子の多様性にあった。

・種子生産の現場
 種子法は国民の食を守るという観点から「稲・麦・大豆」の種子を公的に管理してきた。日本人にとって最も重要なコメの種子生産は全国でおよそ600品種、販売銘柄として320種が生産されている。
 資料が手許にある山口県を例にとると、県が奨励品種に指定した7種(ひとめぼれ・コシヒカリ・晴るる・日本晴・きぬむすめ・中生新千本・ヒノヒカリ)の原原種と原種の生産配布を山口農林総合技術センターが行なっている。7種のうるち米のほかに、モチ米1品種、麦4品種、大豆1品種の原原種と原種の生産を行なっている。種子生産は下記四年間のサイクルで行われている。
 1年目 隔離して栽培、選抜
 2年目 異形株除去等厳格な栽培管理
 3年目 県内各産地で増殖
 4年目 県内全域に配布
 現在東京都をのぞく46道府県で多様な種子が生産されており、各地域の気候風土に合った種子を限られた地域でしか生産されない少量品種であっても途絶えることなく供給しつづけている。

 アベ政権は種子法の廃止理由を「民間の品種開発意欲を阻害している」とした。これは国際的な農業競争力を強化するため「民間活力を最大限活用した開発供給体制を構築する」ための規制改革推進会議の戦略の一つとされた。
 しかし70年間公的種子の育成を進めてきた日本にどれほどの民間活力が生まれているのだろう。また種子法廃止に対して多くの県では独自に種子生産が可能なように条例を制定する動きが出ている。しかし元になる法律が廃止された現状では種子生産の継続は極めて心許ないものになって行くことは明らかであろう。
 種子開発に当たって、イネ一品種の開発には10年、費用は8億円といわれている。こうした種子の知見を「農業競争力支援プログラム」は民間に無償で提供するようにしている。長年に渡って公共のものとして蓄積されてきた知的財産を、同プログラムによれば多国籍アグリメジャーに無償で提供しなければならないことになる。日本の種子に手を加え新品種として多国籍アグリメジャーが開発し特許申請をすれば、これまで公共資源としあった種子が巨大私企業の私有物となることになる。

・多国籍アグリビジネスの独壇場
 「種子を制するものは世界の食料を制する」
 日本をはじめアジア諸国では、種子を遺伝資源として捉え自国の主権的権利を認めている。しかし近年、雑種一代のハイブリッド種子や遺伝子組み換え(GM)作物が普及するに従って、種子は公共財から市場に出回る商品に変わりつつある。
 国際バイオ事業団ISAAAによると、2017年にGM作物を生産した農業生産者は、世界26カ国1800万人、栽培面積は1億8980万haに達している。そしてGM作物を供給しているのはモンサントを始めとする多国籍アグリメジャーである。
 こうした種子の商品化は世界中で急激に進んでおり、世界の種子の70%をモンサント(米)、ダウデュポン(米)、シンジェンタ(瑞)、リマグレイン(仏)、ランドオレイクス(米)、バイエル(独)の6社の多国籍企業が独占している。(2018.6モンサントはバイエルと合併)

・GM作物のメリットと懸念
 人口の急激な増大と気候変動による食料不足が懸念されているが、果たしてそうした懸念にGM種は応えることができるのだろうか?
 モンサントはGM種について四つのメリットを喧伝している。
 ①農薬散布、雑草取りの負担軽減
 ②蜜植により単位面積当たりの生産性向上
 ③農薬散布の減少による環境負担軽減
 ④途上国の飢餓と食料問題の解決

 一方、環境保護団体からは六つの懸念が表明されている。
 ①GMが種の壁を超えることの問題、長い時間をかけた生物進化への影響は?
 ②環境、生態系への影響はコントオールできるのか?
 ③実質的に同等ということでGM食品の表示不要と言えるのか?
 ④GMで本当に農薬が減少するのか?除草剤と除草剤耐性植物の悪循環とならないのか?
 ⑤栄養成分の変動はないのか?
 ⑥多国籍種子独占企業による種子の支配がされないか?

・CBT(生物多様性条約)に加盟していないアメリカ
 現代では、GMを始め種子の開発はバイオテクノロジーが中心となる。さらに中心となるバイオテクノロジーはCBTの三つの目的の全てに対立軸となる可能性が高い。
 1.生物多様性の保全
 2.生物多様性構成要素の持続可能な利用
 3.遺伝資源の公正かつ衡平な利益分配

 取り分けカルタヘナ議定書で採択された「生物多様性に悪影響を及ぼすおそれのあるバイオテクノロジーによる遺伝子組換え生物の環境に対する原理的論点としての危険」の議論のテーブルにはモンサントを始めとした多国籍アグリビジネス企業はついてはいない。
 また「具体的方法としての取り扱い・移送・利用に関する検討」についても多国籍アグリビジネス企業は特許等の企業秘密を盾に情報をディスクロージャーしていない。アメリカはCBTの加盟でこうした義務が生ずることを避けるためCBTに加盟すらしていない。

・日本企業に競争力はあるのか?
 バイオテクノロジーの関わるアグリビジネスは「神の手にあった生き物の創造に手を染める」と言われることがある。実際科学的にも技術的にも現在の日本企業が参入できるレベルは既にどこにもない。アベ政権の語る「民間活力を最大限活用した開発供給体制を構築するための戦略」の民間活力とはモンサントを始めとする米の巨大アグリビジネス企業に他ならない。1952年から国民の食を守るために営々と培ってきた種子育成の努力は、こうして米を中心とする多国籍アグリビジネス企業の前に何の防御もなく売り渡されることになった。

・遺伝資源の公正な利益分配
 2010年10月名古屋で開催されたCBT/COP10では「遺伝資源へのアクセスと公正な利益分配」に関する愛知目標が策定された。
 一般にバイオテクノロジーに関わるビジネスは食物と医薬品がほとんどだ。特に有用な遺伝子を持つ動植物や微生物の遺伝資源は途上国の自然のなかにある。歴史上こうした遺伝資源は先進諸国が途上国から一方的に持去る、つまり略奪することで利益を得てきた。この不公正を是正するものとして名古屋議定書では「遺伝資源のアクセスと利益配分 Access and Benefit Sharing」が合意された。
 また名古屋議定書は途上国にある遺伝資源の利益を公正かつ衡平に利益配分することによって原産国の生物多様性を守る資金確保の方法としている。

・人は生き物を創造することはできない
 人は生態系の一部を改変したり管理することができる。しかし生き物を新たに創り出すことはできない。どれだけ科学技術が発達しようとも人は環境のなかにあり生体系の一部でしかない。巨大なアグリメジャーがどれだけ資金とインテリジェンスを注ぎ込もうとも新たな生き物は創り出すことはできない。そして同じように失ってしまった生き物を地上に戻すことはできない。

 1835年ガラパゴス諸島への長い冒険の旅からイギリスに帰ったダーウィンはこう結論している。
「傲慢な人間は自分たちのことを神が創造した偉大な作品で、神の介在者としての価値があると考えている。しかし、もっと謙虚にいえば、人間は動物から創造されたと考えるのが真実であると私は思う」
 ビーグル号で世界を巡ったダーウィンは「種の起源」を発表する前、およそ10年間フジツボの研究に没頭した。多分その時ダーウィンの頭の中には自然選択という革命的な考えが渦巻いていたはずだ。その天地がひっくり返るような考えを公にすることに畏れを抱き、ダーウィンは研究室にこもってフジツボを見つめつづけていたのではないだろうか。それはダーウィンが生命の起源について述べた次の言葉に表わされているように思う。
「生命の創造は神に任せよう」