災害が頻発している。西日本豪雨では多くの人々が犠牲になった。
 我らがアベ首相は真っ新の防災服に身を固めて、見るからに嫌々、重い足取りで被災地を10分ほど視察した。

 高橋源一郎がジュネの言葉をこう語っている。
「ジュネが、そうしなかったのは、死者の前で『防災服』を着ることが、作家として非礼であると感じたからだ、とぼくは思う。」
 罪のない人々が犠牲になった時、人はどのような立居振舞をすべきなのか?その時高橋源一郎はジャン・ジュネを思い出したのだろう。

 ジャン・ジュネは悲惨な少年期を過ごし、窃盗、男娼、麻薬と、あらゆる犯罪に手を染めた同性愛者として終身刑を求刑された。
 刑務所で発表した「花のノートルダム」「薔薇の奇跡」がジャン・コクトーやジャン・ポール・サルトルに高く評価され、彼らの請願で恩赦を受け自由の身となった。そしてジュネは文学から対象を五月革命、アメリカ黒人解放運動からマイノリティー、移民、パレスチナへとより社会的なものに移していく。取り分け晩年はパレスチナ問題に傾倒し遺作となった「恋する虜」にジュネの哲学が結実している。

 この短い文章のなかに示唆するものが二つある。
 一つは首相の罪のない人々が犠牲になった時の立居振舞だ。アベ首相の被災地に赴いた如何にも面倒そうな立ち居振る舞いの映像を、今上天皇の被災地のお見舞いに比べてみたらどうだろう?アベ首相はニュース映像を撮るためにお見舞いのポーズを取っただけであることが見え透いていた。一方今上天皇のお見舞いの姿は心に響いてくる。天皇制を肯定的にとらえていないにもかかわらず今上天皇の姿が心に響くのはその気持ちが伝わってくるからだろう。
 ジュネが作家として言葉に「防災服」を着せなかったのは亡くなった人々に対して最もふさわしい言葉を呻吟するが故だった。これは政治家が真っ新な防災服を世間から咎められないために取り敢えず着ること、そうした安直さをジュネは拒否したのだった。

 高校2年生の時初めて「泥棒日記」を読んだ。ページを捲るといきなり同性愛の情事が描かれ、見てはいけないもの、さしずめソドムを見たような気がした。
 サルトルとボーヴォワールに捧げられた「泥棒日記」は、まさにサルトルの「存在と無」、到達不可能な無価値性、そうした哲学的心象がジュネの自伝的物語のなかに描かれていた。全体を通底するものはホモセクシャルの情事。そして麻薬、窃盗、刑務所。すべての悪徳は聖なるものへと換骨奪胎し、やがて悪徳は聖なるものと同一のものになっていく。
 学生運動に傾倒し始めた十代の頃、ジュネはとても難解だった。しかしジュネの示した到達不可能な無価値性は、知れば知るほどソドム、つまり悪徳の都市ではなくむしろ価値の多様性が思春期の心のなかで妖しく光を放っていたことは確かだった。

 もう一つはLGBTの人びとの生きる価値を否定した杉田水脈の言葉だ。
 性的指向によって人は差別されるべきではない。これは現在の民主主義国としての共通の理念だ。国連はLGBTの人びとに対する差別や暴力の解消を積極的に進めている。国会議員が国連から日本に対して積極的な差別解消に向けたアクションを要求されていることを知らないわけがない。にもかかわらずこうした寄稿をすることは明らかに少数者に対するヘイトスピーチである。因みにバラク・オバマが国連でLGBTについてこう演説している。
「愛する対象が誰であるかを理由に人々の権利を否定してはならない」

 ジャン・ジュネが「泥棒日記」を書いたのは1949年、既に70年前のことだ。当時ですら同性愛者の権利を公に主張することができた。ジュネの示した到達不可能な無価値性とは、正にアンビバレンスであり価値の多様性を示していた。
 単に男女という点から見たとしても、女性が参政権を獲得したのは20世紀に入ってからだ。日本で女性参政権が認められたのは戦争が終わった1945年、女性議員が誕生したのは翌1946年、そんなに遠い昔のことではない。杉田某女は一体どこに戻ろうとしているのか?一時的に戻るようなことがあったとしても歴史が戻ることは決してない。
 そしてもう一つ、知性のない人間は言葉も持ちえず故に人の上に立つことも成し得ない。いずれアベも杉田も歴史に断罪されることであろう。