社会福祉法人の評議員をしいることもあり医療的ケアを伴う子供たちを訪ねることが度々ある。人工呼吸器を付けたり、胃瘻をしたり、そんな子供たちを何人もの介護士や看護師が付きっきりで介助している。
 こうした重い障がいを持った人が、自宅で家族の助けを借りることなくたった一人で普通に暮らしていくことができるのだろうか?そしてその不可能に挑んだ人が鹿野靖明だった。

 鹿野靖明は小学生の時に筋ジストロフィーを発症し、十二歳の時国立療養所八雲病院に入所した。療養所には筋ジストロフィーの子供たちが北海道の各地から集められ、療養所の中に学校も併設されていた。鹿野の友だちは日増しに病気が進行し順番に亡くなっていった。十二歳の少年にとって恐ろしい体験であり、鹿野自身の身体も徐々に筋力を失い病気が進行していった。鹿野は十二歳から十五歳までの多感な時期をこの療養所で過ごしている。
 その後鹿野靖明は札幌の真駒内養護学校に通い、1979年北海道リハビリテーションセンターに入所した。そして1984年鹿野はたった一人アパートで暮らす決意を固めた。

 「こんな夜更けにバナナかよ」は渡辺一史が三年間に渡って追いつづけた鹿野靖明とボランティアたちのルポルタージュだ。
 フリーライターだった渡辺一史が、ふと舞いこんだ仕事として鹿野靖明とボランティアたちと関わることになる。渡辺はそれまで福祉も障がい者の問題も、何一つ関わったことがなかった。鹿野に関わることで初めて目にする障がい者とボランティアの日常。それは渡辺が初めて接する重度障がい者の生の姿であり日常だった。
 鹿野は自分でボランティアを集め自らの介助を依頼する。鹿野は1984年の時点で既に寝たきりの状態で24時間の介助が必要だった。
 当時重度の障がい者が生きていくには二つの選択肢しかなかった。一つは一生親の世話を受けて暮らすか、もう一つは障がい者施設で暮らすか。しかし鹿野はこの二つとも拒否し、普通の人と同じように自立生活の道を選んだ。その時鹿野が言った言葉は『障がい者でも普通に生きたい』という言葉だった。

 一方鹿野邸に集まるボランティア、通称鹿ボラの人々は24時間休みなく鹿野の介助を行った。結局それは善意とかそうした優しい思い遣りではなく、鹿野と鹿ボラの人間同士のぶつかり合いだった。やがて鹿ボラの人々は、鹿野から生きる理由を見つけていく。それは懸命に生きようとする鹿野の姿を目の当たりにする迫力だったのだ。
 渡辺一史が本の中でこう書いている。
『考えてもみてほしい。痰を吸引するにも、食事をするにも、トイレに行くにも、寝返りを打つにも、人が要るのだ。一日24時間、一年365日、途切れることなく介助のローテーションが組まれ…強心剤を飲むことで微弱な心臓にムチを入れ…睡眠導入剤と精神安定剤でどうにか命を鼓舞してボランティアとともに生き続けているのだ。』

 ノーマライゼーションという考え方がある。障がいを持つ人と持たない人が平等に生活する社会を実現するという考え方だ。しかしこうした建前の人権意識ではなく本を読み進めて行くうちに健常者は障がい者を必要としているように思えてくる。
「一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる」
一見皮肉に聞こえるこの言葉は、鹿野の生き様を目の当たりにした鹿ボラに生きる意味を突きつけることになった。
 鹿ボラの一人がこんなことを言っている。
『自分は気持ちが塞ぐと一人で豊平川に行く。そこですすきの穂が風になびくのを見ているうちに、気持ちが落ちついて、また生活に戻る気力が湧いてくる。でも鹿野さんにはポツンとひとりになれる場所も時間もないことを思うと切ない。』
 人は何のために生きているのだろう…何のために人間は自分と格闘して生きているのだろう?そうした疑問が懸命に生きようとする鹿野から共に生きるということを学んでいったのだ。

 2002年8月12日『俺は死なない』と言い続けてきた鹿野靖明は拡張型心筋症による不整脈で息を引きとった。鹿野が亡くなる場面では胸が詰まった。
 エピローグの終わりに渡辺一史はこう締めくくっている。
『生きるのをあきらめないこと。
 そして、人との関わりをあきらめないこと。
 人が生きるとは、死ぬとは、おそらくそういうことなのだろう、と私は思い始めている』