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 デイヴィッド・クォメンという作家がいる。環境問題、中でも野生動物を中心に、世界を旅しながらノンフィクションを書き続けているアメリカの作家だ。

 クォメンが二十年程前に書いた「野生の心、野生への旅」の中の一節を人生にずっと重ね合わせてきた。それはこんな言葉だ。


「私は古びた下宿屋に部屋を借りて仕事を探した。無謀にも、野心的だが成功のするはずのない小説を書きはじめた。虎の子の貯金を使いはたし、フォルクスワーゲンのワゴンを売って安い車に買い換えた。

 『こんにちは。特に名前はありません。今夜のあなたのウェイターです』と見知らぬ客に声をかける道化じみた苦行を学んだ。

 私は二十六歳。その期間が人生の前奏曲ではなく、人生そのものだと気づくことのできる年齢だった。私は本当の通貨、確かだが限りのある通貨を、不可知の利率で不確かな投機につぎこんでいることがわかっていた。時とエネルギーとスタミナという通貨を


 人生には諦めなければならないことがある。

 二十六歳のクォメンには分かっていた。自分が手にしたいものが、自分には手にすることができないことを。

 クォメンの一節を目にしたのは四十歳の少し前だった。私はその時まだ不確かな投機に、人生という限りある通貨をつぎ込んでいた。この一節を読んで、私は今がもう人生の前奏曲でないことを突きつけられた思いがした。実は私にも夢が叶うことはないことはとうの昔に分かっていたのだった。

 果たしてデイビッド・クォメンは、そして私自身は人生に何を叶えたかったのであろう


 デイヴィッド・クォメンは、1997年に出版した「ドードーの歌」の最後にこう記している。


「本当に何かをしたいのなら、犠牲という憂鬱な衝動を覚悟することかもしれない。絶望するのも一つの理にかなった選択肢だ。しかし、絶望は何の実も結ばないし、どんなに小さくても希望をもつほうが、はるかにエキサイティングである」


 クォメンがモンタナの小さなレストランでウェイターをしていた時から四十年が経っていた。そして私はクォメンの一節を目にしてから二十年が経っていた。

 果たしてデイヴィッド・クォメンは、そして私自身は人生の何を手にしたのだろう。その答えは自分自身の人生そのものなのかも知れない

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