Alberto Giacometti

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 真っ直ぐ遠くを見つめ、上体を前に倒し、大股で歩いていく男。
 地面をしっかりと踏みしめる大きな足は、遥か遠くを見つめる男の視線と同じように力強く、まるで運命のような意志の力を感じる。

 1960年に制作されたチェース・マンハッタン銀行のプロジェクトの「歩く男」だ。
 吹き抜けの展示室には、もう一つのプロジェクトに寄せた大作「大きな女性立像」が置かれている。
 この二つのジャコメッティの記念碑的大作を見ることができただけで良かった。
 心が震え思わず溜息が漏れてきた。そして何より展示を、いわば美術館のアトリウムのような広い空間に置くことで彫刻に生命を与えていた。さらに吹き抜けの階段の上から見下ろす立像は、人間の目線とは違った俯瞰という視点を得て、大きな立像をまるでドローン撮影のように見ることができた。これは正しく感動だ。美術館にはこうした広い空間が有るか無いかで展示は大きく変わってくる。

 ジャコメッティは時間の空間化を形にしようとした彫刻家だ。
「空間は存在しない、創り出す必要がある。だが空間は存在しない、存在しないのだ」ジャコメッティ自身こう語っている。
 ジャコメッティを語る時、実存主義的或いはバタイユ的と形容されることが度々あるのはこうした彫刻家のイデアからくるものではないだろうか。
 それは対象の存在は自明のものではなく、あくまで見る者の眼差しのなかに現れ、しかも連続した人間の五感が幻想にしか過ぎないとしたら、対象のみならず空間そのものも存在しなくなり、自らが創り出さなければならないものとなる。そしてこれこそがジャコメッティが獲得しようとした理想であり、こうしたイデアが実存主義的或いはバタイユ的と形容される所以だろう。

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 ジャコメッティは、ピカソと同じように在命中に大きな名声を手に入れている。しかしピカソと違うことは、生涯モンパルナスの朽ち果てそうなアトリエで生活し制作をつづけたことだ。ピカソのように広大な邸宅や別荘を持つこともなく、パリのイポリット・マンドロン通り46番地の古びたアトリエに四十年間住みつづけた。度々アトリエを訪れた作家のジャン・ジュネがこう述懐している。
「一階にあるアトリエはいつ崩壊してもおかしくなかった。…不安定で、いまにも崩れ落ちそうで、分解に向かっている。ところがこのすべてが、ある絶対的実在のなかで凝固してしまっていたように見えた」
 ジャコメッティは常に自由であろうとし、家も調度品もできるだけシンプルに暮らしつづけた。それは物によって心が支配されることを警戒したからだった。そして来る日も来る日も、造っては壊し、壊しては造ることによって、彫刻それ自体を取り囲む張り詰めた空間そのものを創造していった。

 戦後ジャコメッティの彫刻は、削ぎ落とされた人間の姿から、アウシュビッツを生き延びた人々の姿を連想されることが多くあった。しかしジャコメッティの削ぎ落とされた人間像は、強制収容所から生き延びた人々だけではなく、より普遍的な長い時間を超越した人間像として、古代エジプト美術やキクラデス諸島の美術から生み出されたものだった。それは求道者のように創造に我が身を捧げたジャコメッティの生涯から生まれ出た姿そのものだった。
 J.P.サルトルがジャコメッティについてこう記している。
「一切はまだなすべく残されている。そしてそれを試みること、それが一切だ」
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