about Paul Watson
ポール・ワトソン
日本では危険極まりない嫌われ者の代表のように言われる”シーシェパードコンサーベーション協会 Sea Shepherd Conservation Society”の創設者だ。
1951年に生まれたポール・ワトソンは、反核運動やインディアンの権利擁護運動から、1970年アースデーの抗議運動に加わることで軸足を環境問題に移した。その後グリーンピースGreenPeaceの結成に参加し、GPの旧ソ連の捕鯨船に抗議する外洋デモの指揮をとった。
ワトソンの戦闘性が世界に注目されたのは、ラブラドル沖のカナダ流氷上でハープアラザシ猟に抗議活動を行った時だった。
GPとワトソンは、母アザラシが生きたまま皮を剥がされ悲鳴をあげるのを、目の前で見た子アザラシが悲嘆にくれ泣き叫んでいる姿を世界中に配信した。
ワトソン達の最初のアクションは、アザラシに染料を振り掛け毛皮を価値のないものにすることだった。しかしアザラシの殺戮を止めることができず、ワトソンはアザラシに覆いかぶさり漁師の棍棒を受けることになった。さらに毛皮を船に乗せる時、クリンチケーブルに自身を括り付けて毛皮の搬出を阻もうとした。その結果ワトソンは漁師たちのリンチに合い、漁師たちは気を失ったワトソンを氷の海に突き落とした後、毛皮を剥いだアザラシの死体の山に置き去りにした。
一命を取り留めたワトソンだったが、ハープアラザシ猟の実力行使により非暴力原則のGPから除名された。その時ワトソンは「無法者を阻止するためには無法者が必要だ」と声明を出している。
こうしたポール・ワトソンの抗議行動はP.シンガーの「動物の解放」という生命に対する哲学の創造が大きく影響している。
オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーは「動物の解放」の中でこう記している。
『道徳的世界は人間以外の存在としての動物へと今まさに拡大の過程にある。…そして動物の道徳的地位は既に議論の対象になっており、我々は歴史の胎動を目の当たりにしているのだ』
またアメリカの哲学者トム・レーガンは「動物の権利の根拠」の中で
『動物は人間と同じように「固有の価値」と「生命に対する平等な自然権」を持っている』とした。こうしたシンガーやレーガンの新しい哲学は、イギリスの哲学者ヘンリー・ソールトが
『自然権が人だけではなく、やがてあらゆる生き物の自然の権利に拡大されるようになっていくだろう』と語ってから百年の時が経っていた。
つまりポール・ワトソンの実力行使は自然権としての「自然の権利」であり、自然権は法の上位にあるという哲学をその正当性の根拠としている。
GPを除名されたワトソンは、”シーシェパードコンサーベーション協会 Sea Shepherd Conservation Society”を自ら設立した。SSCSの行動原理は
「暴力は道徳的に間違っているが、非暴力のみでは地球に有益な変化をもたらすことは滅多にない。そして物に暴力を振るうことがあっても、生命、すなわち人間や人間以外の生物には決して暴力は振るわない」とするものだった。
SSCSの活動は、欧米で広く支持され”クリーヴランド・アモリー動物基金”や”イギリス王立動物愛護協会”の財政的援助を受けるようになった。その他Patagoniaなどの民間企業からも多くの資金援助を受けるようになった。
SSCSは、1978年には206ftのシーシェパード号を建造し、最初の闘いにラブラドルの春のアザラシ狩り、続いてポルトガルで捕鯨船シェラ号に体当たりし、積載した非合法の鯨肉を告発した。数ヶ月後捕鯨船シェラ号は爆破撃沈されたが、ワトソンはシーシェパード号のポルトガル当局の拿捕を避けるために自らの手で船を海に沈めた。
現在SSCSは、世界各地に數万人規模の会員と支援者を擁し資金は潤沢だ。その豊富な資金で直ちにシーシェパード2号を建造し”ガイアの鯨海軍の旗艦”とした。
1986年11月9日、レイキャビクで米ソ首脳会談が開催されていたその日、ワトソンとSSCSはレイキャビクの鯨加工処理本部を爆破し、無人の二隻の捕鯨船を沈没させた。この時の被害は460万ドルと言われたが、襲撃のリーダー、ロドニー・コロネイドとデヴィッド・ハウイットは飛行機でレイキャビクを逃げ出し逮捕されることはなかった。またアイスランドもそれ以上二人を追うことはなかった。
ワトソンらSSCSはこの闘いを「自然法は常に国家法に優先する」とし高らかに勝利を宣言し一層世界中から支援者が増えることになった。
確かにポール・ワトソンは環境運動の中の過激派かも知れない。しかし数々の違法行為を重ねながらもワトソンは逮捕されることはなく起訴されることもほとんどなかった。このことはSSCSに豊富な資金が集まることと同じく、それだけ広範な支持があり、オーストラリア等反捕鯨国では国家の保護下にあるようにさえ見える。
ワトソンのこうした抗議行動は、環境運動に直接行動のムーヴメントを起こすことになり、ヘンリー・スピラは”ドレーズテスト”を直接の標的にした。
”ドレーズテスト”とはウサギの目に化粧品を垂らして刺激反応性を評価する実験で、ほとんどのウサギは失明した。ヘンリー・スピラは資金を集め1980年ニューヨークタイムズに全面広告を出した。NYTには白ウサギの写真にこのコピーが載っていた。
「レブロンは、人間自身の美しさのために何匹のウサギを失明させるのだろうか」
NYのレブロン本社の前で行われたデモは世界中の共感を呼び、レブロンは”ドレーズテスト”を中止するに至った。
こうした直接行動は、かつての人道主義運動の黎明期がそうであったように度々法的な枠を超えることになった。そしてこうした行動の正義の根拠となったものは、自然法は国の法律の上位にあるという哲学による。