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1890年7月27日、ファン・ゴッホは自らの頭を銃で撃ち抜いた。二日後ゴッホは弟テオに看取られ息を引き取った。数々の夢に敗れ、誇るべき経歴はどこにもなく、自らに絶望し、貧しく生きた37年の生涯だった。
 1903年5月8日、ポール・ゴーギャンは病に蝕まれながら太平洋の孤島ヒヴァオアの掘っ建て小屋の中で、乞食のような姿をして、島の女に看取られて息を引き取った。野生の人と呼び、誇り高く生きるジャン・ヴァルジャンに自らを例え、最後は食事にも事欠いた54年の生涯だった。
 ゴッホとゴーギャン、二人に共通したこと、それは生涯貧しかったこと、認められることがなかったこと、そして強い制作意欲と、果てしない想像力があったことだった。

 愛知県美術館で開催されている「ゴッホとゴーギャン展」その殆どが油彩、展示は68点にも及ぶ。更に二人が影響を受けたミレー、ブルトン、コロー、ルソー、モネ、ピサロの油彩まで展示されている。スノッブを承知で言えば、総額200億円になろうかとする至宝の名画群を観ていて、絶望に頭を撃ち抜き、太平洋の孤島で襤褸のように死んでいった、ゴッホとゴーギャンを想い芸術の時間性ということを考えてしまった。

 時代を追って展示されていた中で、初期のゴッホからは、画家自身の民衆への愛情と、人の慰めになるものをもたらしたいというゴッホに根ざした信念が否応なく伝わってきた。何よりゴッホの初期作品の中では「古い教会の塔、ニューネン」の荒れ果てた教会の光景が心に残った。
 一方初期のゴーギャンからは、後に主題となっていく”想像、空想、夢、幻影”を感じることができた。ゴーギャン36歳の「自画像」は、ジャン・ヴァルジャンを自認したゴーギャンから想像することのできない初々しいまでの不安に驚かされた。
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 パリの都会の生活に疲れたゴッホはアルルに移った。アルルでゴッホは色彩に目覚めた。そして人物画を現代の人物画に進化させようと試みミレーの「種まく人」をモチーフに選んだ。ジャン・フランソワ・ミレーこそが生涯ゴッホの道標となった。
 ゴッホが1890年サンレミで描いた「種まく人」についてゴッホ自身がこう語っている。
『ミレーの絵は、模写するというよりはむしろ「別の言葉」に翻訳するという感じだ』
 一方ゴーギャンはフランスを離れマルティニックにプリミティヴな世界を求めていった。自らをソヴァージュ野生の人と言うように、マルティニックで原始の暮らしを始め、熱帯の眩しい太陽の下、大胆な構図と力強い色調の絵を描き始めた。
 エミール・ベルナールの「ポン=タヴェンの市場」は記憶から呼び覚ましたクロワゾニズムという技法で描かれており、実際にゴーギャンの絵と並べてみると二人の絵は見紛うほどに似ているものだった。このことが後にゴーギャンとベルナールの諍いの元になるのだが…。
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 そしてゴッホとゴーギャンは「黄色い家」で運命の共同生活に入った。しかし共同生活はわずか2ヶ月、とはいえ絵画史上この2ヶ月間でゴッホは数々の名画を残している。
 ゴッホとゴーギャン、二人の天才はあまりに違っていた。ゴッホがいかにゴーギャンを愛し憧れていたかは「ゴーギャンの椅子」からも伝わってくる。椅子の上に置かれた蝋燭と本は、詩を書くように想像から絵を描くゴーギャンへの憧憬の表われだ。その一方で「ファン・ゴッホの椅子」は、質素な椅子に玉葱が置かれ民衆画家を目指したゴッホの姿が素直に描かれている。
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 ゴッホとゴーギャン、二人の天才はゴーギャンが度々語ったように全く違っていた。しかし切ないまでにゴッホがゴーギャンを思う気持ちは、まるで捨てられまいとする恋人のようだ。そのゴーギャンへの思いの果てが、ゴッホに自ら左耳を切り落とさせることになった。
 ファン・ゴッホの目指した芸術は、深遠で人に慰めをもたらしたいというゴッホの信念に深く根ざしている。それはゴッホが画家になるまでの長い道程には、常に信仰があったからだと思う。
 一方でポール・ゴーギャンは、美に関することこそが芸術にとって最も重要なものであり一切の妥協を許さなかった。ゴーギャンの強い意志とカリスマ性は、ゴッホの憧れであり尊敬だった。

 精神の崩壊をきたしたゴッホは「黄色い家」からも追い立てられ、崩壊した精神の中でキャンバスに向かった。ゴッホにとって人生と向かい合うたったひとつの方法は絵筆を持つことだった。そしてゴーギャンは、二度とフランスに戻ることのない船に乗っていた。