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回顧展は人生だと思う。
一人の画家が歩んだ人生。その人生は画家自身というより、時代に規定され、時代に翻弄された人生だ。なかでも藤田嗣治は、まさに時代のなかで自ら屹立しようとしながらも、時代に押し流されていった人生だった。今回の回顧展を見終わって強くそう感じた。
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藤田は27歳でパリに渡り、43歳までの17年間エトランゼとしてパリで過ごした。そこには、スーチンやピカソやモジリアーニやマチス、綺羅星のような若き才能が新たな絵画ムーブメントを創り出そうとしていた。そうした稀有な才能のなかでエコールドパリの一人として藤田は、わずか数年のうちに自らの世界を確立する。
滑らかで鈍い光を放つ白い下地と、その上に言い難い存在感を持った陶器のような裸婦、裸体に沿って引かれる繊細な、それでいてしっかりとした黒い輪郭線。キャンパス一面に茫漠とした世界を創り出す一方で、陶器のような冷たさが裸の女から伝わってくる。これこそがLeonard Foujitaの世界だ。
しかしパリでの名声をよそに、日本国内では藤田嗣治の評価はそれ程高くはなかった。17年ぶりに帰国した藤田は、自身の画集に充てた「在佛十七年-自傳風に語る-」のなかで結局日本では受け入れられないという諦観を覗かせている。
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時代は戦争に向かっていた。パリに戻った藤田を待っていたものは、ナチスのポーランド侵攻だった。ヨーロッパ全体が戦場となる直前の1940年、藤田は再び日本に帰って来た。
そして帰国後、一気に戦争画へと向かうことになる。
「アッツ島玉砕」や「ソロモン海域に於ける米兵の末路」等、パリ画壇で描いた絵と全く違う殺戮の群像画。
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藤田を戦争画に没頭させたものは、国家的、社会的な画家に対する評価への精神的充足感だった。
藤田嗣治の父は、陸軍軍医総監だった。厳格な家庭に育った藤田は、父に対して、そして国に対して、画家になったことに何かしらの負い目を持っていたのではないだろうか。国のために才能を活かすことができる、それが戦争画に没頭する一つの動機だったような気がする。
一方で藤田はコスモポリタンだ。何よりファシズムが世界にとって何を意味するのかは肌身を持って知っていたはずだ。エコールドパリの朋輩だったシャガールやマチスはナチスに追われるようにアメリカに渡った。ピカソはゲルニカを仕上げ、反ファシズムの姿勢を鮮明にした。
藤田がエコールドパリの仲間たちと同じ道を歩まなかったのは、西洋そのものに東洋を蔑視するものを感じていたためかも知れない。こうしたアンビバレンツな感情が、藤田を急激にナショナリズムに傾倒させていったのではないだろうか。
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そして戦争は終わった。
藤田を待っていたものは、戦争協力者の汚名だった。逃げるようにアメリカに渡った藤田、NYで開催された個展会場には、ファシズム協力者藤田を非難するベン・シャーンと国吉康雄が待ち構えていた。
藤田は傷心の中でフランスに戻りフランス国籍を取得しカトリックの洗礼を受けた。しかし1950年代のフランスではアンフォルメルが巻き起こっていた。既に藤田嗣治の存在は過去のものとなっていた。
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藤田嗣治の人生は、東西の文明のなかに流浪し、戦争という時代に翻弄された人生だった。しかしすべての画家がこうした時代性のなかで自らを表現せざるをえなかったというわけではない。戦争画を描かなかった画家はたくさんいたし、松本竣介のように時代に向かい合った勇気ある画家はいた。
つまり藤田が背負ったものは、藤田自身の求めたものが時代のなかにあったからだ。果たして藤田の求めたものとは一体何だったのだろう?それは芸術の対価のようなもの、成功した画家の先にある富と名誉、そうした世俗的栄誉のような気がした。
晩年藤田はランスの聖母礼拝堂の壁画の制作に心血を注いだ。そして礼拝堂の落成式に藤田はこう述べている。
「80年間の罪を償いたい…」
日本人で最も成功した巨匠レオナルド・フジタ。しかし藤田自身が人生の最期に手にしようとしたものは富でも名声でもなく、ただ神への救いだった。