反知性主義、行き着く先がツタヤ図書館。
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 レイ・ブラドベリの「華氏451」という小説がある。フランソワ・トリュフォーがブラドベリの原作を元に撮った映画「華氏451」(1966)で憶えている人も多いのではないだろうか?因みに華氏451度は紙が自然発火する温度の事だ。
 物語は情報がテレビとラジオに限られた社会。そこでは本の所持が禁止され、発見されればファイアマンが出動し本は焼却され、所有者は逮捕された。その結果、人々は自らの頭で考える事を忘れ、思考力を失い、為政者の思うがままの人間になっていった。

 どこか今の日本の状況に似ていないだろうか?
 NHKはアベ政権に支配され、国民はNHKから流される情報を真実だと思い込んでいる。
 知識は人間の心の領域にある。
 私たちは知識を本によって得てきた。私たちが読み、学んできた本の履歴を見れば、その人の考えていること、その人の興味を持っていること、そしてその人の心の中を知ることができる。つまり読書はその人自身の分身なのだ。

 日本図書館協会は1954年「図書館の自由に関する宣言」を行った。これは戦前、図書館が思想善導機関の役割を担ったことへの反省から生まれた宣言だ。さらに1979年には「利用者の秘密を守る宣言」が加えられた。
 図書館の持つ役割、それは人々に知識を得る場所を提供すると同時に、人々の心の領域の秘密を守ることだ。図書館が読書の履歴を、警察や行政機関に漏洩するようなことがあったら、私たちの考えは簡単に把握され、何の犯罪を犯していなくても権力にとって都合の悪い人間は「危険人物」としてマークされてしまうことになる。

 「華氏451」の中で、ファイアマンのガイは、ある日クラリスという女性と知り合う。クラリスから考える事を教えられたガイは、ファイアマンの仕事現場で拾った本を読み始め徐々に社会への疑問を抱いていく。やがてガイ自身が危険人物として特務機関から追われる身となっていく。
 果たして「ツタヤ図書館」に私たちの心の領域を守る決意があるだろうか?
 警察や行政機関に履歴の照会を要求されて、図書館の存在を賭けて秘密を守り抜く決意があるだろうか?
 「出エジプト記」を旅行記に分類するような図書館だ。権力に許認可でもちらつかされたら簡単に、いや進んで情報を提供するのではないだろうか。
 人の心の領域が集積する図書館には、少なくとも知を畏敬する心が必要だ。利益を優先しアダルトビデオを何の躊躇もなく並べるツタヤに、知を畏敬する心があるようには到底思えない。そして企業の存続を賭けて私たちの心を守り抜くことなどツタヤには絶対にありえないと思う。
 「華氏451」レイ・ブラドベリの未来小説は、私たちにとってリアルそのものとして今目の前にある。