母が亡くなったのは30年以上前のことだ。亡くなった歳は59歳だった。
母は亡くなる前の3ヶ月間を、青森県田子町のホスピスで過ごした。
名古屋から遠く離れた東北の田舎町に、果たして母が行きたかったかどうかは分からない。しかし父が快復に一縷の望みを繋いで癌末期の母を青森県田子町まで連れて行った。
3ヶ月間の入院生活の間に、4度見舞いに行った。東北新幹線が開通したばかり、まだ大宮までしか開通していない頃だった。

久しぶりに東北新幹線に乗って北に向かっている。もう宇都宮だ。普段母のことなど思い出したこともないのに、30年前の記憶が蘇ってくる。
私は母の歳を幾つも越してしまった。当時は少し早いが仕方がないと、そんな薄情なことを思っていた。しかしこうして母の歳を越えても、未だにつまらない欲望も捨てられない自分を思うと、亡くなった母の気持ちが少しは分かるような気がしてくる。

父はいわゆる立志伝めいた人で、苦労して地位とお金をつかんだ人だった。そうした男の例にもれず、公認の妾宅があった。お妾さんは母より随分若かった。公認だったこともあり、そのお妾さんも度々青森まで母を見舞いに行った。
癌末期のやつれ切った母に比べ、若い妾の容姿は女盛りそのものだった。
母は辛かっただろうし、悔しかったと思う。
青森で雪が降り始めた11月、母と電話で話していた。
「今日は僕の誕生日だよ」と伝えると、母が
「忘れていてごめんね。あなたが可哀想…」と言った。
私はしばらく何も言えずにいた。思わず口をついて出そうになった言葉は
『可哀想なのはお母さんでしょう』という言葉だった。

人生は残酷だ。
母は亡くなる前、お妾さんに
「お父さんをお願いします」と言った。
この言葉は母の、女としてのプライドであり、妻としての誇りだったと思う。

もうすぐ仙台だ。車窓の景色は晩秋の風景だ。旅は過去への旅でもあるのだろうか…。まるでNeil Young の"Journey through the past"の歌のようだ。
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