Ballad 3
9.

 午前中の校内は閑散としていた。ついこの間まで木陰を作っていた木々も葉をすっかり落としている。開け放した窓から冷たい空気が入ってくる。乱雑に機関紙やビラが積み上げられたM大の自治会室に北野は一人でいた。千夏から連絡はなかった。
 北野は窓際に立った。自治会室の前に立てられたタテ看だけが太陽の光を反射してやけに白く光っている。千夏から連絡がない以上、午後の会議で千夏のことを話さなければならない。北野はそれだけは何としても避けたかった。目の前のことが問題だった。千夏の苦しみの深さがどれ程のものか北野には結局分からなかった。その時電話が鳴った。北野は反射的に千夏からの電話だと思った。
「はい、」
電話の向こうからは何の返事もない。北野は黙っていた。しばらく沈黙がつづいた。間違いなく千夏だ。
「千夏、千夏だろう。
 良かったよ電話してくれて、
 千夏なんだろう、返事しろよ。」
北野はほっとして矢継ぎ早に言った。しかし電話の向こうで深い溜め息が聞こえた。
「…キタノありがとう。
 今まで本当にありがとう。」
千夏の消え入りそうな声がした。
「何言ってるだ、どういう意味だよ。まさかこのまま顔を見せないってことじゃないどろうな。それとも杉木と一緒なのか?」
「ううん、違う。杉木とは昨日の夜別れたわ。
 ねぇ、キタノ私を許してくれる…」
千夏は泣いていた。泣きながら懸命に話そうとしている。
「何言ってるんだ。杉木と別れたならそれでいいじゃないか。辛かったと思うけどよく頑張ったよ。千夏もう泣くのはよせよ。」
「違うの、キタノ違うのよ。
 私、そこには行かない。
 どこにも戻らない。
 もう決めたの、私はもう生きられない…」
千夏の声は震えている。涙を流しながらやっとの思いで言葉をつないでいる。
「キタノありがとう、本当にありがとう。
 …キタノと会えて良かった。一緒に色んなことができて本当に良かった。」
北野はことの重大さにやっと気付いた。
「どこにいるんだ。馬鹿なこと考えてるんじゃないだろうな。
 千夏、今どこなんだよ。」
千夏は何も返事をしない。張り詰めたような沈黙がつづいた。
「もういいの、みんなもう終わっちゃったの…
 キタノ私のこと
 私のことずっと覚えててね…お願いだから私をずっと覚えてて…」
「千夏何言ってるんだ、待てよ。すぐ行くから今どこなんだ。
 馬鹿なこと考えてるんじゃない、千夏!」
「ねぇキタノ、忘れないって…
 私を忘れないって言って…」
千夏はしゃくり上げながら話しつづけた。
「ごめんね、ごめんね、本当にごめんね
 でも仕方なかったの、私にはもうどうしようもなかったの
 でも私を責めないで…お願いキタノ私を許して…」
「待て!千夏待てよ、どこにいるんだ。今行くから、千夏どこなんだ!」
その時受話器の向こうから学生会館の館内放送が聞こえた。千夏は学館にいる。
「千夏すぐ行くからそこで待ってるんだ!いいな!」
北野は受話器を放り投げると学生会館に走った。自治会室から学生会館まで一キロほどだ。
「千夏が死ぬ。千夏が死ぬ。千夏が死ぬ。」
北野はそう言いながら全速力で走った。グリーンベルトを左に曲がると学生会館が見える。北野はよろけそうになりながら懸命に走った。普段歩いてすぐのところにある学生会館がこんなに遠く感じたことはない。息が切れる。北野は懸命に走った。
 学生会館のホールの公衆電話に駆け寄った。しかし千夏はいなかった。北野はあたりを探し回った。しかし千夏はどこにもいなかった。その時北野はハッとした。
「屋上かも知れない。」
北野は階段を駆け上がった。膝が震えるのが分かった。屋上と思った瞬間、本当に千夏が死んでしまうと思った。五階まで一気に駆け上がった。後二階だ。息が切れて苦しかった。しかしそれ以上に怖さで身体が震えた。
 七階の踊り場にきた。北野は屋上に上がる扉を開けた。真っ青の空が広がった。そして空の真ん中に千夏が立っていた。
「千夏!」
北野は大声で叫んだ。背を向けて立っていた千夏は北野の叫び声を聞いて後ろを振り向いた。千夏は北野を見ると笑ったように見えた。そして次の瞬間、千夏は真っ青な空の上に浮いた。

10. 

 明日は最後の試合、そして初めてのタイトルマッチだった。練習量は多くはなかったが減量は順調に進みコンディションも比較的良かった。北野は前の試合の精神的ダメージから立ち直っているように見えた。最後の試合ということで北野自身の気持ちの中で踏ん切りがついたのかも知れない。北野はタイトルマッチという名に恥じない試合、挑戦者にふさわしい試合をしようと思った。
 北野は軽く汗を流しただけで練習を切り上げた。ロッカールームに入る前に立ち止まってジムの中を見回した。今日で最後かと思うと見慣れたジムが写真のフレームの中の光景のように見えた。

 西日差す暑い夏の夕暮れ、北野は初めてこのジムの前を通った。その時の北野は一日一日がただ過ぎていくだけの抜け殻のような生活を送っていた。しかしボクシングを始めた北野は少しづつ歩き出した。それは例えば、シャドーボクシングで右を出すと左のガードが下がる。左のガードを下げないように何ラウンドも鏡の前に立つ。今日よりも明日の方が良くなっていく。そんな小さな一歩だった。しかしそのことが明日を考えること、北野が生きようとすることの始まりだった。
 あれから五年がたった。玲子と知り合ったのもボクシングだった。そしてつい最近では北野自身の人生がボクシングを通じて新しく生まれ変わっていけるような気がしていた。しかし結局それは北野の幻想だった。対戦相手の死が北野の前に現実のものとして現れた時、心の隅に追いやってきた千夏の死が再び大きく北野の心を覆った。北野は知らず知らずのうちに千夏を忘れようとしていた。いや本当は北野自身が千夏を忘れ去ろうとしていたのかも知れなかった。
 千夏の死を心の中から追いやることで自分だけが違う人生を生きようとしていたのかも知れない。それは北野の心から千夏を清算することだった。
『私を忘れないで…』と千夏が残した言葉を北野は心の片隅からも葬り去ろうとしていたのだ。そのことを突き付けられた北野は驚愕した。自分だけが生きようとしていることに心の底から恐怖を覚えた。それは言い換えれば五年前の、死が目前にある時間に北野自身が戻ることだった。
 北野の心の中を黒い雲が覆った。あの時の時間をもう一度味わうと思っただけでで身体が震えた。しかし今北野は一人ではなかった。怯える北野を抱きとめてくれる玲子がいた。北野は玲子の力を借りることで千夏の死をどこかに追いやろうとするのではなく、生きている限り見詰めつづけようと思った。そう思った時心を覆っていた黒い雲はしだいに薄くなっていった。

 ロッカールームを出ると笑顔をいっぱいにした玲子が明るい声で言った。
「お疲れさん。」
北野は笑いながら玲子の額をポンと叩いた。
「やったわね。」
そう言うと玲子は北野のボディを連打した。北野は腹を押さえて苦しそうな声を出した。
「駄目だぞ玲子。そんな強烈なボディは明日までダメージが残るじゃないか。」
横で見ていた会長が笑いながら言った。
「だったら私が代わってあげる。」
「そうだな、その方がいいかもしれんなぁ。」
玲子と北野は目を合わせて声を出して笑った。
 ジムの外は秋の青空が広がっていた。季節が少しづつ深まっていく。街路樹も赤や黄に染まり始め、透明な空気が葉の色を一枚一枚鮮やかに映し出す。二人は手をつなぎながら深まる秋の街並を駅に向かって歩いた。
「いよいよ明日だね。
 明日の試合が終わったら新しい生活が始まるんだ。」
玲子は北野を見て笑った。北野も玲子を見て笑った。

11.

 試合は既に中盤に入っていた。チャンピオンに対して北野は積極的に前へ出た。左のジャブを武器に速い動きで自分のペースをつかみ、ここまでなんとか形勢を五分に持ち込んでいた。しかしチャンピオンの重いパンチは北野の顔面を確実に捕らえ、左目は大きく腫れ上がっていた。実力の差は思っていた以上のものがあった。
 六ラウンドの終了間際、チャンピオンの右フックが北野の側頭部を捕らえた。瞬間北野はよろけ、倒れる寸前のところでゴングが鳴った。
 セコンドに抱きかかえられるようにして自分のコーナーに戻った北野は頭から水をかけられた。冷たい水をかぶってもまだ意識がはっきりしない。
「やばいな、左はもう潰れていやがる。北野見えるか!」
会長が左目にワセリンを塗りながら言った。
「ハァ、ハァ、ハァ、大丈夫、」
北野は激しい息でそれだけ言うのがやっとだった。
「次は勝負を賭けてくる。いいか中に入れずに、回って回ってかわすんだ、いいな!」
「狷介!」
玲子が北野の腕を握った。
 七ラウンドのゴングが鳴った。コーナーから立ち上がりリングの中央に出ようとするとチャンピオンは目の前にいた。北野が左を出すより早くチャンピオンの左がいきなり入った。眉間にガツンと強烈な衝撃が走る。北野はまだ六ラウンドのダメージから回復していない。つづけて右フックが顔面を捕らえた。腰がくだけた北野はヨロヨロと後ろに退がり、コーナーロープに抱きとめられるようにしてかろうじて立った。チャンピオンは猛然と突進してラッシュをかけてきた。
「回れ、回れ、回るんだ!」
セコンドの叫び声がする。北野は朦朧とした意識の中で顔面を両手でガードしてパンチを防ぎながら左に回ろうとした。グローブの隙間から見えるものは既に色を失っていた。すべてはモノクロに映り、リングを照らす証明だけが眩しく閃光のように瞳に入ってくる。
『手を出さなければ』
北野はふらつきながら相手のパンチの切れ間にカウンターを出した。しかしガードを外した瞬間、逆に北野の顔面にチャンピオンの右ストレートが炸裂した。鮮血が飛び散った。腫れ上がって左目を塞いでいた瞼はパックリと口を開け血が流れ出した。血が目に滲みる。北野は両手を上げガードを固めようとした。そこをチャンピオンの左が北野のボディをえぐった。北野は苦しさのあまりマウスピースを吐き出しそうになった。息ができない。口から涎が垂れ、腰が折れそうになった。北野の顔面は真っ赤だ。返り血を浴びたチャンピオンの胸も血で染まっている。
 ワーッという喚声がこだました。喚声がリングの回りを渦を巻くようにぐるぐる回っている。
「バカヤロー!足だ、足!回れ、回れー!」
会長の罵声が飛んだ。北野は左に回ろうとするが、それより早くチャンピオンが左に回り込んでパンチを送り込んでくる。北野はサンドバックさながらロープ際で棒立ちになり思う存分パンチを浴びている。左フックから突き上げるような右アッパーが北野の顎に入った。北野はのけぞるようにロープに倒れかかった。そしてロープの反動で跳ね返されたところをチャンピオンの右ストレートが北野の顔面に炸裂した。北野は崩れるようにマットに落ちた。
 レフェリーのカウントを数える声が遠くに響いた。白いマットが目の前にあった。
「立て!立て北野!」
会長がマットを叩いて大声で叫んだ。
『まだ立てる
 エイトカウントまでに立てばいいんだ。』
北野は両手で上体を起こし片方の膝をマットについて立ち上がった。ウォーという喚声がリングを包む。レフェリーが北野の前でカウントを数える。北野はファイティングポーズを取ると大きく頷いた。レフェリーがグローブを拭き北野の前からパッと離れた。
 コーナーにいたチャンピオンが走るようにして襲いかかってきた。北野はよろよろと左に回るが、相手のスピードが速くすぐにロープに追い詰められた。早いワンツーが顔面を捕らえた。
「後一分だ!回れ!」
北野はロープを背に左、左と回った。ファイティングポーズは取っていたが意識は少しづつ遠のいていった。
 北野の左目はもう何も見えなかった。両手でガードしていてもチャンピオンのパンチは正確に北野の顔面を捕らえた。北野は恐怖を覚えた。意識は朦朧としていても痛みだけははっきり伝わってくる。顔面にパンチが当たるたびに頭がガンガンした。痛みの恐怖から北野は一層身体を丸めた。確実に脳がダメージを受けている。
 リングを照らすライトが北野の目の中で付いたり消えたりした。リングの回りを喚声が駆け回る。北野の耳には回れ回れというセコンドの声が喚声に混じって遠くに聞こえた。ゴングが鳴った。
「まだやれるか!」
北野を抱きとめて会長が叫ぶ。レフェリーが北野の左目を見る。
「狷介、もうやめて
 これ以上やったら死んじゃうわ」
玲子が北野の腕を握りながら今にも泣き出しそうに言った。玲子の声を聞いた北野は闘争心が既になくなっているのが分かった。北野は怖かった。自分もあいつみたいになるんだ。そう思うとこれ以上試合をつづけるのが本当に怖かった。
「ハァ、ハァ、まだやれる、
 まだやれる、ハァ、ハァ、ハァ、」
この時北野の失いつつある意識の中にあったのは千夏の姿だった。
 八ラウンドのゴングが鳴った。会長が北野の口を開けマウスピースをねじ込んだ。北野は全身の力を込めて立ち上がった。リングの中央でチャンピオンと互いのグローブを合わせた。北野もチャンピオンも最後のラウンドになることが分かっていた。
 チャンピオンはスッと回り込むと左フックを浴びせた。北野は同時にタイミングのいい左を出した。つづいて右、左とストレートをチャンピオンの顔面に打ち込んだ。しかし北野の反撃もここまでだった。態勢を立て直し正面に立ったチャンピオンは一気にラッシュをかけてきた。北野はズルズルとロープまで追いやられた。再びロープを背にした北野にチャンピオンは容赦なくパンチを繰り出してくる。止血剤の塗ってあった北野の左瞼からは血が噴き出していた。
 左、右、左と連打が襲いかかってくる。フック、アッパー、ボディとあらゆるパンチが襲う。北野はガードもろくにできなくなっていた。北野の目にはチャンピオンの黒い影だけが映っている。あたりは暗く照明を消したようだった。リングを取り巻いていた喚声も今はもう聞こえなかった。脳にガンガンと伝わる衝撃はまるでブラックホールに吸い込まれていく光のように感じた。その時北野の黒い網膜に千夏が映った。暗い闇の向こうに千夏の後ろ姿が見えた。北野は大声で千夏を呼んだ。
「狷介!」
リングサイドで玲子が叫ぶ。会長がリングにタオルを投げ入れた。
 北野は真っ暗な闇の中に一人だった。
「千夏!」
北野は千夏を呼んだ。千夏がいない。千夏はどこに行ったんだ。一瞬目の前に白いものが浮かんだ。それは真っ暗な闇の向こうに後ろを向いて立っている千夏だった。北野はもう一度大声で千夏を呼んだ。すると千夏は振り返って北野を見た。北野の目の前に白い服を着た千夏が立っていた。