本は私の心が成長する糧だった。
 果たして私の精神性がどれほどのものかは別にしても、少なくとも本に出会わなかったら今よりはるかに幼稚で情緒的で、何かに感動することや論理的に物事を考えることのできない人間になっていたことだけは確かだった。
 家と学校、或いは家と職場との往復の日々は、当然その狭いコミュニティの中でしか人生を経験しない。どれほど付き合いが広かったとしても、世界の広がりは物理的に限られたものでしかない。
 そんな日常の中で、本は自分自身の小さな世界をより広い世界に誘ってくれるものだった。
 思春期の頃、はじめて文学に目覚めた本は「斜陽」だった。13歳、それまでも読書はしていたが何れも少年冒険小説のようなものばかりだった。
 「斜陽」には、障子の隙間から大人の世界を垣間見るようような密やかさがあった。少年だった私にとってそれは今までに経験したことのない世界の入り口だった。やがてフランソワーズ・サガンと出会い、恋愛は一大関心事となり、性は具体的に想像できるものとなっていった。
 高校受験の勉強をしていた夜更け、ラジオで「詩の朗読」の時間があった。家族が寝静まり、ラジオから流れる詩の朗読を聞くことが好きだった。なかでも萩原朔太郎の詩は、ひとり夜更けに聞くには相応しいものだった。「月に吠える」「青猫」詩集の題名からしてひと際秘密めいたものがあった。

 やがて高校を卒業して大学へ。学生運動の渦中で語るに憚るような青春を送り、嫌々ながら社会に出た。
 人生の中で数々の本に出会った。拙い私の人生の中で、本はいつも新しい世界の扉を開けてくれた。本は私に前に進む勇気を与えてくれた。そして何より自分自身の頭で物事を考える導きの糸となった。

 大人になって、いやこの十年程の間で、一番心に残った本は何だろう?
 若い友達に「どんな本がお薦め?」と聞かれて考えてみた。
・内なる肖像/フランソワ・ジャコブ
・パタゴニア/ブルース・チャトウィン
・自然の権利/ロデリック・ナッシュ
・ジャングルクルーズにうってつけの日/生井英考
「内なる肖像」は自叙伝、「パタゴニア」は紀行文、「自然の権利」と「ジャングルクルーズにうってつけの日」は評論だ。小説がひとつもないことに気付いた。そこでもう少し時間を遡って小説を考えてみた。
・都会と犬ども/バルガス・リョサ
・百年の孤独/ガルシア・マルケス

 そして私の一番大切な言葉はフランソワ・ジャコブのこんな言葉だ。
「どんなことがあっても、脅しや強迫に屈してはいけない。どんな弱腰にも、どんな逃避にも、あとから高価な代償がついてまわる。」