ジャン・ポール・サルトルが視力を失った頃、フランソワーズ・サガンがサルトルに長い手紙を送った。
 手紙にはサルトルへの深い尊敬と、少女の頃から抱いていた心からの憧れが綴ってあった。
 手紙の中でフランソワーズ・サガンは、その気持ちをこんな言葉で語っている。

「私が十五歳の頃、
 その年齢は知的で潔癖でまだ具体的な野心を持たぬ故にいかなる妥協も知らない年頃ですが、
 あなたが私にお約束になったすべてのことをその後のあなたはちゃんと果たしてくださいました。」

 私には、二つの大切な言葉がある。
 その一つが、サガンがサルトルに送ったこの言葉だ。
 手紙を手にしたサルトルはサガンを夕食に誘った。
 サガンにとって数十年来の思い、自身の精神性の多くをサルトルに負っていたという思い、十五歳の少女だったサガンが既に四十歳を過ぎていたとしても、心の中は少女のようなときめきと純粋さにあふれていた。
 サガンがエドガール・キネ大通りのサルトルのアパルトマンに迎えにいくと、サルトルは着古したダッフルコート姿で立っていた。二人は忍び足でクローズリー・デ・リラに向かい二人だけで食事をとった。それはサルトルの死の一年前のことだった。
 その後二人はほとんど毎週のように夕食をともにし、盲目となったサルトルのためにサガンがステーキを小さく切ってやった。二人でドライヴを楽しんだり、天気のいい日はリュクサンブー ル公園を散歩した。
 別れるときの気持ちをサガンはこんな風に語っている。
『私は帰るとき、彼を戸口の前にたったひとり残すことがとても辛かった。彼はぽつんと佇んで、目を私の方へ向け、すまなそうな顔をしていた。...私たちはもう二度と会えないような気がした』

 フランソワーズ・サガンは17歳のときに「悲しみよこんにちは」で衝撃的なデビューを飾った。 天才少女として世界中からもてはやされ数多くの小説や戯曲を発表する一方で、恋愛遍歴や浪費癖、 薬物・アルコール中毒とスキャンダルには事欠かなかった。
 そのサガンが生涯尊敬と憧れをもったサルトルとは果たして何だったのだろう?それはサルトルの哲学的文学的功績ではなく、サルトルの生き方そのものだった。
 ジャン・ポール・サルトルは1964年ノーベル文学賞の授与を辞退した。世界中で最も突出した鋭利な知性は同時に、弱い者、辱められし者たちのために惜しみなく捧げられた。そして自らがもたらした精神的栄誉や物質的収入を頑に拒み、アルジェリア戦争の際には反政府的言動のために三度プラスティック爆弾を仕掛けられ路上に放り出されることになった。にもかかわらずサルトルの信念は揺らぐことはなかった。確かにサルトルは一時期毛沢東思想に傾倒し過ちを犯したことがあった。しかしサルトルはその過ちを認めることを恐れなかった。
 つまりフランソワーズ・サガンが生涯、尊敬と憧れを抱いたジャン・ポール・サルトルとは、自らの持ちうるものすべてを人に与え、人と分かち合い、それと同時に自らに差し出されたすべてのもの、それは権威とでも言い表すことができるすべてのものを拒否したサルトル自身の生き方そのものだったのである。

 サルトルが亡くなった時サガンは45歳だった。その後のサガンの人生はアルコールと薬物と借金に塗れ、相変わらずスキャンダルにあふれていた。しかしそうしたサガンであったからこそ、サルトルの生き方は夜空に輝く唯ひとつの星であり、そんなサルトルへの愛は極北の愛だった。
 フランソワーズ・サガンは2004年9月24日、69歳で亡くなった。サガンのスキャンダラスな人生は、当然サルトルが約束したような人生ではなかった。しかしサガンの心には、十五歳のいわば「悲しみよこんにちは」のセシルのような少女が、サガン自身の憧れのままに生きていたのではないだろうか。
 十五歳の感受性。知的で潔癖でいかなる妥協も許さないナイーヴな感性をいつも心のどこかに持っていたい。どれほど私の人生が知的で潔癖でなかったとしても、その人生を含羞をもって生きていきたい。それはまさにフランソワーズ・サガンがジャン・ポール・サルトルを前にした時のように...。


Jean Paul Sartre
 ジャン・ポール・サルトルは第二次大戦後の混沌とした世界の中に「存在と無」を発表し実存主義哲学を人々の前に提示した。
 「存在と無」はフッサールの現象学を基に、フロイトの精神分析学とハイデッガーの存在論を統合したものだった。そして「存在と無」発表の5年前の1938年、サルトルは小説「嘔吐」を発表することで実存主義哲学を分かりやすく解説した。
 「嘔吐」の主人公ロカンタンは、自らの存在に対する嫌悪感から自己嫌悪と狂気に陥り嘔吐を繰り返す。やがてロカンタンは嘔吐の意味を理解し自身の存在の精神の開放へと向かっていく。
 果たしてロカンタンの嘔吐とは何だったのだろう?
 サルトルは「嘔吐」のなかで、存在そのもの、実在するものが無ではなく何ものかであるということが狂気に追いやる正体であることを明らかにしていく。正体が分かったロカンタンは物体を色や形で捉えることをやめ、純粋な存在として認識することで仮想的な存在そのものに規制されてきた自分自身の精神の解放を迎えていく。こうして一見カフカ的観念性をもった「嘔吐」は小説の形式を保ちながらも戦後哲学のインテレクチュアルとしての地位を獲得した。