新しい一年が始まった。
 去年一年は短くはなかった。日常は同じように流れていくことはなかったし、ある時、ある日、乗り越えなければならないことがたくさんあった。
 丁度一年前、コスタリカを訪れたことがずっと昔のように思える。凍えるような雨の成田から、JFKが銃弾に倒れたダラスに向かった。ダラスからサンホセへ。夜のサンホセ国際空港には熱帯の緩い風が吹いていた。
 やがて季節は春になり、夏が過ぎ、秋が来て、また冬になった。手帳を開くと一年の数々の出来事が甦ってくる。iPhoneで撮った写真には、撮影地に刺した赤いピンが日本全国に散らばっている。

 年が新しくなってまた一つ歳を取ってしまう。初老という歳になってより強く思うようになったことがある。それは誇りを持って生きるということだ。個人的なことだったり、仕事のことだったり、社会的なことだったり、あるいは政治的なことだったり、自分にとって最期まで守らなければならないもの。そうした自分自身が生きていく上で最低限守らなければならないものを、脅しや強迫や、まして金などで売り渡してはならないということだ。果たして自分自身がそうした誇りを持って生きているのか、いやそもそも誇り自体を持っているのか。

 私には、二つの大切な言葉がある。
 一つはフランソワ・ジャコブの言葉だ。
「どんなことがあっても、脅しや強迫に屈してはいけない。どんな弱腰にも、どんな逃避にも、あとから高価な代償がついてまわる。」
この言葉はフランソワ・ジャコブがナチ占領下のパリで、医学部を辞めて闘うために自由フランスに身を投じた時の言葉だ。

 戦争の足音をこれほど近くに感じたことはない。
 第二次安倍政権誕生以来、尖閣問題、憲法解釈、秘密保護法、道徳教育、そして靖国参拝。日本国内は過度なナショナリズム、排外主義に向かっている。ほんの小さな切っ掛けで、例えば尖閣水域で日本と中国のCoast Guardに偶発的衝突が起き、海上保安庁の乗組員に犠牲者が出るようなことになったら、日本国内がどうなっていくのかが手に取るように分かる。そしてその原動力になるものがナショナリズムだ。

 ここで想像してほしい。フランソワ・ジャコブがナチ占領下のパリでヒトラーと闘うために銃を取ったことを。
 ナチ翼賛のヴィシー政権下で自らの信念を貫くためにレジスタンスに身を投ずることは、暮らしや恋人や持っているものすべてを犠牲にする必要があった。ナチが侵攻しフィリップ・ペタン将軍が首相になった時フランス国民はこぞってペタン将軍を支持した。ヴィシー政権は永遠につづくように思われた。それでもフランソワ・ジャコブはファシズムと闘うためにパリを離れ北アフリカ戦線に向かった。
 ナショナリズムとは何だろう?
 この時フランソワ・ジャコブは国を愛する気持ちから自由フランスに加わったはずだ。このジャコブの行為はナショナリズムに他ならない。しかし反ペタン派は少数だったし、ジャコブが自由フランスの兵士になるためには決断が必要だった。このフランソワ・ジャコブの決断はあくまで個人のアイデンティティに基づくものだ。
 ところが今日本を覆おうとしているナショナリズムは、そうした個人のアイデンティティとは違うものだ。それは日本人でありさえすれば手にすることができるというアイデンティティだ。
 人が個として生きるためには、そして個人としてのアイデンティティを確立するためには確固とした実在が必要だ。翻って日本人でありさえすれば手にできるアイデンティティには個としての実在は不要だ。そこに必要なものはただ日本人でありさえすれば良い。
 例えば在特会のようにネットから生まれてきたレイシストたちは、新大久保をニヤニヤ笑いながら『チョウセン殺せ!チョウセン帰れ!』と日の丸を掲げながら行進する。ほんの少し前の日本人であったならこうした差別的言辞は例え思っていたとしても公に口にすることはなかった。しかもこうした在特会の胸の悪くなるような主張は日本の社会の中に一定の影響力を持ちつつある。そして在特会に象徴されるレイシズムの根拠になっているものがナショナリズムだ。
 日本人でありさえすれば得ることができる優越感、個人として生きることのできない人間にとってはまさに甘い誘惑だ。一度個人に戻ればどこにも自慢できるところがないばかりか、学歴も金も地位も果ては恋人すら持つことができない自分自身に戻らなければならない。
 日本が大国で、国際的地位を有し、豊かな文化を持ち、そうした世界に誇るものがあればある程、ただ日本人である自分は同じように世界に誇れる存在となり、あたかも自分に力があるように錯覚する。世界中で台頭し始めたネオナチの多くの若者が最も底辺の若者たちであるのはこうした理由だ。

 69年前、日本は全世界を相手に戦争をしていた。その戦争で亡くなったアジアの人々は2,000万人、そして200万人の日本人が命を落とした。どれほどの日本人が悲しく悲惨な目のあったことだろう。戦場に散っていった若い命、沖縄の悲惨な地上戦で亡くなった人々、そして一瞬の原爆で焼き殺された人々、日本人はこうした悲惨な歴史を忘れてしまったのだろうか?
 日本を愛することは良いだろう。しかしその愛たるものが政治的に幼稚なナルシズムであったり、他者の意見を理解できない想像力の欠如であったり、自らのコンプレックスの捌け口であったとするならば、そのナショナリズムは為政者の思うがままに操られる集団のなかの一人のナショナリズムでしかない。
 戦争の足音がすぐそこに聞こえるなか私たちの心は萎縮しているように思う。それはたかだか遊びでしかないFaceBookのなかですら政治的主張、なかでも反政府的主張に対して「いいね!」を躊躇しているように。
 自らの頭で自らの意志で、個としてのアイデンティティを確立しよう。そしてその個としてのアイデンティティに立って自らの主張を勇気を持って掲げよう。それこそが自由な社会を創る礎であり、私たち自身を守ることであり、戦争への道を拒否することになるのだから。