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 1965年ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランソワ・ジャコブが自叙伝「内なる肖像」のなかでこう語っている。
「どんなことがあっても、脅しや強迫に屈してはいけないということだった。どんな弱腰にも、どんな逃避にも、あとから高価な代償がついてまわるということだ。」

 1934年、フランスは左右の激しい対立の中にあった。パリでは黒や赤のベレーを得意げにかぶり棍棒を手にして行進する極右政治組織アクシオンフランセーズや火の十字団が我が者顔に街を闊歩し、その一方で仏共産党や社会党そして知識人たちは人民戦線を結成して極右に対抗していた。
 そうしたなか1934年2月6日、右翼による国会襲撃事件が起こった。その時フランソワはリセの第二学年、彼は危機の時代にあって自分がどこにも位置しないことは不可能だと感じていた。そして彼は極右の粗野な暴力とレイシズムを警戒しなければならないことを悟り始めていた。
 フランソワの通うカルノー・リセでは左翼は少数派だった。力強さに欠け、クラスの大部分は無気力で、意見もなければ政治色もなかった。右翼だけが効果的かつ攻撃的で、金髪で陶器色の眼をしたアクシオンフランセーズの若い活動家ジャン・Hがリセを支配していた。
 フランソワはリセを支配するジャンと議論し彼を説得しようとした。しかしフランソワを待っていたのはアクシオンフランセーズによる暴力だった。乱闘はひっきりなしに起こった。眼が腫れ上がり鼻血を出すこともしばしばだった。フランソワが勝つことはめったになかった。朝目覚めるたびに、陰湿で終わりのない暴力がつづくことに吐き気のような恐怖を覚えた。

 フランソワ・ジャコブがカルノー・リセを卒業しパリ大学医学部に進んだ1940年6月、パリはナチスドイツによって占領された。わずか数日のうちに共和国は解体した。その時の気持ちをフランソワ・ジャコブはこう述懐している。
「二十年の間、物事をルールどおりにするように学んできた。ひとつひとつを積み重ね、過去や歴史を持つ世界を組み立ててきたものと思っていた。ところが、いま、この国と共和制、制度や法律や軍隊や司法機関、そうした堅固なものと思っていた機構がいきなりまるごと崩れ去ったのだ。自分が信じていたすべて、生涯信じつづけるだろうと思っていたものすべて、私たちの生活の基盤そのものを作っていたように見えたもののすべて、そうしたものが一瞬にして瓦解したのだ。
 しかも、一切はひとりの男のせいだった。そしてその男の回りにはできるだけうまく立ち回ろうとする腐りきった無能者たちがその男をなすがままにさせていた。」その男とはアドルフ・ヒトラーだった。
 フランソワは大学を辞めド・ゴール将軍率いる自由フランスに志願した。4年間に及ぶ北アフリカ戦線での闘いの後、フランソワはノルマンディー上陸作戦に加わり重傷を負い、身体の半分をギプスに埋められ長い闘病生活を余儀なくされた。

 そして、いま、2013年12月6日深夜、日本で特定秘密保護法が成立した。1万人を超える人々が国会を包囲し、反対の声は全国各地で上がっていた。しかし特定秘密保護法は成立した。
 果たしてフランソワ・ジャコブが青春を賭したナチ占領下のパリと、今日の日本を直ちに比較するつもりはないが、どこか通底する暗い時代を感ぜずにはいられない。私たちは今に生きる者の責任として自らの意志をはっきりと伝えよう。それはナチ占領下のパリで銃を取ったフランソワ・ジャコブの勇気のように。