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 世界経済はアメリカの一挙手一投足で動いている。そしてそのアメリカの経済政策を決定しているものは驚くことにアメリカの経済学者、なかでもシカゴ学派と言われる少数のエリートたちだ。
 世界の景気も金融も貿易も為替も、果ては戦争の危険さえも決定しているのがごくわずかな経済学のスーパーエリートたちだと思うと、本当に世界はそんなわずかな人間が動かしているのだろうかと懐疑的になってしまう。
 車谷暁の「経済学者の栄光と敗北」は、そんな少数のエリートたちが、世界経済や金融取引を決定してきた歴史を明らかにしている。
 登場人物は、ケインズとフリードマン。その他サミュエルソンやミンスキー、そしてハイエクからクルーグマン。そんな名だたる経済学者の経済政策や生い立ちを記したいわばスーパーエコノミストたちの履歴書のような本だ。登場する経済学者は全部で14人。そのうちノーベル経済学賞を受賞した者は、サミュエルソン、フリードマン、ベッカー、ルーカス、ハイエク、クルーグマンそしてスティグリッツの7人だ。

 現代の経済政策は、ジョン・メイナード・ケインズなくしては語れない。すべての経済理論や政策が、ケインズの「雇用、利子および貨幣の一般理論」から始まり、経済政策はその批判と追従と離反と回帰に終始する。
 第一次大戦によるヨーロッパ世界の崩壊、1929年に始まった世界恐慌、ファシズムの台頭、そして第二次大戦。世界中を揺さぶりつづけた二十世紀をケインズは正に世界の救済者として「一般理論」を手に颯爽と現れた。
 なかでも戦後のブレトン・ウッズ協定は、晩年のケインズが命を懸けて合意させた戦後世界の経済体制だ。そのブレトン・ウッズ体制下で、瓦礫となったヨーロッパは戦後復興を遂げ、焼け野原だった日本は奇跡の復興を成し遂げることができた。
 しかし「一般理論」を手に予言者のように現れたケインズは、男色家でありペドフェリアでもあった。若きジョン・メイナードは思想においても倫理においても、過去の権威に激しく反抗するインモラルなアウトサイダーとして人生を生きていた。そして晩年、戦後世界の枠組みを作ったブレトン・ウッズ協定の合意に、ケインズは疲れ果て憔悴のなかで生涯を終えようとしていた。ジョン・メイナード・ケインズ、世紀を超えた天才をしても人生を思うがままには運ぶことができなかったのだ。

 ケインズ亡き後を継いだのはポール・サミュエルソンだった。数学を駆使したサミュエルソンの経済学理論はケインズ経済学を主導した。しかし1970年代、世界を覆った景気後退とインフレーションというスタグフレーションのソリューションを明らかにできなかったサミュエルソンは、マネタリズムの総帥ミルトン・フリードマンの前に席を譲ることになる。
 ケインズ経済学を批判して登場したミルトン・フリードマンは、1976年のノーベル経済学賞受賞の記念講演で高々とケインズ主義への勝利を宣言した。フリードマンがケインズの一般理論に対置したものは、マネーサプライの緩和による徹底した自由市場への信奉とマネタリズムだった。そしてフリードマンのマネタリズムを政策として採用したのがサッチャー政権だった。
 しかしマーガレット・サッチャーが本当に心酔していたのは、フリードマンではなくオーストリアハンガリー帝国で生を受けたハイエクだった。フリードリッヒ・フォン・ハイエクは「隷従への道」のなかで社会主義とファシズムを同時に批判し、集産的計画経済に警鐘を鳴らした。
『民主主義は本質的には一つの手段であり、個人的自由を保障する功利主義的な一つの道具である』これはハイエクが自由主義と個人主義の理想を達成するために民主主義を単なる手段と考えていた証左である。ハイエクにとって自由な市場とは歴史のなかで育まれた文明的仕組みであり、世界をグローバリズムと金融工学で覆い尽くそうとしたマネタリズムは、ソビエトが妄想した社会帝国主義の対局にあるものに他ならなかった。

 2008年、世界はリーマンショックの前に立ちすくんでいた。ミルトン・フリードマンのマネタリズムから生み出されたマネーは紙屑となり、世界は大恐慌の再来に畏れおののいていた。
 そしてこの時手品のような処方箋を書いたのがポール・クルーグマンだった。
『リセッションを恐れる必要はない。リセッションはFRBが対応することができ』デフレで景気回復が困難な時はインフレターゲット政策による回復を主張した。つまりこうした政府による経済政策を唱えるクルーグマンは他ならぬケインズ主義に回帰しているのだった。

 GATTを発展的に解消しWTOと進化したはずの世界経済の枠組みは今や瀕死の状態だ。それは先進各国が、TPPやFTAといった二国或は数カ国間協議に向かっていることが明らかに示している。GATT-WTOは世界大戦を総括した国際貿易システムであり、ブレトン・ウッズ体制の一方の柱だったはずだ。その体制が崩壊の危機にあることは、世界が再びブロック化に向かっているということに他ならない。
 グローバリズムの先が見えてきた世界にとって、WTOの崩壊は再びブロック化から戦争へと進む道なのだろうか。今ここでジョン・メイナードが現れたらどんな導きの糸を示すのだろう。そして一見ケインズ主義の対極にあるように見えるハイエクの示した自由な市場は、果たして平和な未来を約束することができるのであろうか。
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