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 暗い画面の中で男が叫んでいる。口を大きく開け恐怖の叫び声をあげている。しかし男の顔ははっきりとは分からない。顔が筆で掃いたようにかき消されていて表情をうかがうことができないからだ。フランシス・ベーコンの「叫ぶ教皇の頭部のための習作」だ。

 フランシス・ベーコンは、20世紀アイルランドの画家だ。1909~1992年という生年は、ベーコンが戦争の世紀を生き抜いたことを現している。ベーコン自身、アイルランドの独立運動、二つの世界大戦、そして核という新たな恐怖、こうした20世紀を暴力の時代として捉えて強烈な絵画作品を生みだしている。
 ベーコンは戦後の絵画運動、取り分けアメリカ抽象表現主義に代表される抽象絵画のムーブメントに対して具象絵画の作家と言われてきた。しかし美術館で実際のベーコンの作品を目の当たりにすると、その作品はとても具象絵画とは思えない。歪む肉体、ボーダーレスな人と動物、檻のように人物を囲う黄色い枠、すべての作品から神経を揺さぶるざわめきや、肌を逆撫でするような不快な感覚が呼び覚まされてくる。
 こうした感覚は、ベーコンが「無理矢理に生に引き戻す」と語っているように、ベーコン自身が作品から伝えようとした意思が鑑賞者に如実に伝わっていることを示している。つまりベーコンの描いた、暗く不快で神経に障る絵は、ベーコン自身の支配が明確に貫徹されているということだ。そして鑑賞者は、ベーコンの思うがままに心を支配されている。
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 絵画によって鑑賞者の精神が支配されることは希有なことだ。そうであるが故にベーコンの作品は、他の芸術家や表現者の心を動かさずにはいられない。例えば舞踏家だ。それは海外の舞踏家だけではなく、土方巽や田中泯など日本の舞踏家も例外ではない。
 回顧展の期間中に田中泯のパフォーマンスが行われた。一糸纏わぬ田中泯が鑑賞者のすぐ目の前で踊りだす。初めは全裸の田中泯の姿に、目のやり場に困っていた鑑賞者もじきにその世界に引きずり込まれていく。
 しかしパフォーマンスを終えた田中泯は「ベーコンの世界に心が逝ってしまいそうで怖かった」と語っている。つまり田中泯も、そしてそのパフォーマンスに見入る人々も、フランシス・ベーコンの暗く不快で神経に障る絵に捕えられ、ベーコンの思うがままに心を支配されていたのだ。
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 デヴィッド・リンチはベーコンの絵画に触発されて「ブルーベルベット」を撮った。ベーコンの絵を前にすると、ブルーベルベットの肌を逆撫でするような不快な感覚は、まさにベーコンの絵画そのものだと思った。それはフランシス・ベーコンがエイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」からイメージを触発されてキャンバスに向かったことと同じことだ。
 心を突き動かす何か、そうした精神の慟哭はコンプリートなアートの中には必ず息づいている。そしてその精神の慟哭は、フランシス・ベーコンのキャンバスの中に怖さを覚えるほどに激しく脈打つように溢れ出ていた。

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