2.
■ファントムはもはや遠い幻ではなかった。
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 1968年から1970年までの3年間が私の高校時代だった。高校1年の時、私の頭の中を満たしていたものは大学受験と映画だった。大学受験は楽しいものではなかったが、それほど苦痛にも思わなかった。むしろ家族が寝静まった夜更けに机に向かっていることが好きだった。勉強の合間に萩原朔太郎の詩集を参考書の上において読んだりした。取り立てて文学に傾倒していたわけではなかったが、朔太郎の詩は「青猫」「月に吠える」という詩集の題からして、一人で起きている夜更けにはぴったりだった。その時暗唱した「夜汽車」や「帰郷」は今でも口をついて出てくることがある。
 父の机の中から見つけたトランプに白人のセックスシーンが無修正で写っていたものがあった。その何枚かをかすめ取って机の奥に隠していた。初めて見た時は本当に驚いた。気持ちが悪かった。しかし一旦それを見るとズボンの中はみるみる膨らみ、毎日のようにマスターベーションをした。部屋の中を満たした青くて生臭い臭いがたまらなく嫌だった。その臭いを消すために煙草を吸った。私が家族の寝静まった夜更け、こうして自分だけの小さな殻の中で過ごしていた時、世界は大きく動き始めていた。
 1968年、アメリカはヴェトナム戦争の泥沼の中にあった。1月北ヴェトナム正規軍と南ヴェトナム解放戦線はテト攻勢で一気に米軍を壊滅した。全米で3000を超えるヴェトナム反戦運動のデモが起き、4月4日メンフィスのバルコニーでマルチン・ルーサー・キングが暗殺された。5月パリのカルチェラタンでは学生たちがド・ゴール政権を打倒した。8月シカゴでは50万人の青年学生が市街戦を展開し、悪名高きメイヤー・リチャード・デイリーが真っ赤な顔で叫び狂った。ロサンジェルス、ワッツ地区のゲットウで発生した黒人暴動は6日間におよび34人の黒人が州兵に射殺された。同じ時プラハではソビエト軍の戦車がプラハの春を押し潰した。中国では毛沢東手帳を手にした紅衛兵による文化大革命が全土を席捲 していた。そして日本では10.21国際反戦デーで新宿を占拠した学生に騒乱罪が適用された。
 2年に進級した私の心にもその激動が伝わろうとしていた。高校2年の春休み、バリケード封鎖された大学に初めて入った時のことを鮮明に覚えている。狭い梯子を伝って二階に上がり、窓を乗り越えて建物の中に入るとヘルメットを被った学生が見張りをしていた。部屋の正面の壁には真っ赤なペンキで大きなゲバラの顔が描いてあった。ベレーに星、鋭い目、顔の半分を覆うような髭、そしてその下には "CHE GUEVARA" と大書してあった。やがて私は毎日のようにバリケードに通うようになった。一人夜更けに、詩を読みマスターベーションにふけっていた日々は子供じみたもののように思えた。急に大人になったような気がした。難解な学生運動用語を使うことが誇らしく自分でも分からない言葉を口にした。ナパーム弾を撃ち込み、枯葉剤をまき散らすファントムはもはや遠い幻ではなかった。サイゴンの街頭で焼身自殺する僧侶の意志に畏れを感じた。ソンミで肉片となった村人を誇らしげにかかげるウィリアム・カリーはおぞましい殺人者の顔をしていた。アオザイを着た臨時革命政府のグェン・チ・ビン女史は勇気の象徴だった。回りの大人たちは断罪されるべき存在に変わっていった。こうして私はヴェトナム戦争の真っ ただ中で青春時代を学生運動の中に身を投ずることになった。そして30年後、ヴェトナムは解放されても戦争はいつもどこかで起こっていた。

■マイケル・ウィンターボトムが「ウェルカム・トゥ・サラエボ」を撮った。
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 1999年3月NATO軍がユーゴスラビア連邦の首都ベオグラードの空爆を開始した。セルビア民族主義を扇動するミロシェビッチ政権のコソボ自治州多数派アルバニア系住民への迫害に対する制裁だった。それは5年前ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦で起きたスレブレニツァでのジェノサイドに対するヨーロッパの恐怖の表れだった。
 社会主義国の崩壊は旧ユーゴスラビアにも例外なくおとずれた。1991年以降、旧ユーゴはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立しチトーの築いた連邦国家は崩壊した。1992年4月セルビア、モンテネグロ共和国で構成する現在のユーゴスラビア連邦が成立した。旧ユーゴの崩壊に伴う強大な国家権力の空白は、ヨーロッパの火薬庫といわれたバルカン半島に内戦をまき起こした。
 そして5年前の1995年7月12日から28日までの16日間にボスニア・ヘルツェゴビナ、サラエボ北東の町スレブレニツァで7000人以上のイスラム系住民が虐殺された。虐殺当時スレブレニツァは国連の安全地域に指定されオランダ軍が国連軍として進駐していた。虐殺はその国連監視下で起こった。
 7月11日ユーゴ連邦軍ムラディッチ率いるセルビア民族主義者たちがイスラム教徒の町スレブレニツァを制圧した。それとともに2万5000人のイスラム系住民が保護を求めてオランダ軍本部に集まり、オランダ軍はその内の6000人だけを本部内に入れた。しかしその6000人も13日、セルビア民族主義者の恫喝に屈したオランダ軍により連邦軍に引き渡され、21日オランダ軍は逃げるようにして本国に帰還した。そして住民を待っていたものはヨーロッパでは絶対に起こりえないと思われていたジェノサイドだった。
 オランダ軍本部を追い出されたイスラム系住民は、連邦軍の包囲網の中を東に向かって逃げたもののほとんどは捕まり虐殺された。先に逃げていた2万5000人とオランダ軍の保護を求めないで北のツズラを目指した1万5000人の住民の1万人以上が虐殺された。国際赤十字が把握しただけで7000人の人々が虐殺され、そのうち4000人の遺体が収容された。
 組織的な虐殺は14日から始まった。学校の体育館、サッカー場、農場に集められたイスラム系住民は、殴り殺され、手投げ弾を投げられ、銃殺された。ピリツァの農場で銃殺された人々は、先に殺される人を見るように迫られて自分が殺される順番をまたなければならなかった。オランダ軍はジェノサイドを知りながら、その真っ只中から逃げ出したばかりでなく、ムラディッチらセルビア民族主義者に殺されることが分かっていて住民を引き渡した。国連の旧ユーゴ担当特別代表明石康はこの時大量虐殺が起きているという情報に対して行動を起こすどころか、コメントすらしようとはしなかった。

 イギリスの映画監督マイケル・ウィンターボトムが97年「ウェルカム・トゥ・サラエボ」を撮った。「バタフライ・キス」「日陰のふたり」で新進気鋭の映画作家として名を駆せたウィンターボトムだ。戦火のサラエボを取材する英国人ジャーナリストの目を通して見る戦争、過酷な運命に晒されるいたいけな子供たち。映画はウィンターボトムらしからぬほどに情緒的だ。しかし映画の中に織り混ぜられるニュース映像は、それが実際に起きた事実としての重みを伝えずにはおかない。映画はやがて主人公のジャーナリストが一人の戦争孤児を引き取る話に移っていく。それに伴って一層情緒的に、感傷的にすらなっていく。唯一流れるウォーターボーイズのエイドリアン・ジョンストンの音楽だけがウィン ターボトムの映画であることを思い出させるほどだ。
 映画を見終わった私はあまりのセンチメンタリズムに当惑した。ウィンターボトムの映画といえば人間の苦悩を絶望的にまで見つめつづける厳しさ、そのストイックなまでの姿に心を洗われるような感動をよび覚ます映画だったはずだ。どうしてウィンターボトムがこうまで情緒的な映画を撮る必要があったのだろう。
 第二次大戦でナチスドイツは600万人のユダヤ人を虐殺した。この20世紀最大の罪の下手人はナチスドイツである。しかしオーストリア、ポーランドはもとよりフランス、イギリス、ソヴィエトの連合国側の国々もユダヤ人の虐殺を黙認していた。戦争状態とはいえその時、ヨーロッパの精神的支柱としてあるキリスト教イデオロギーはカトリック、プロテスタント、正教の如何を問わずユダヤ人の地上からの抹殺を容認したのではないのだろうか。そしてその罪は第2次大戦後一貫してヨーロッパの原罪として重い軛となった。それは「人道に対する罪」、「大量虐殺-ジェノサイド」が国際法上の罪として国家を越え、時効による免責のない人類への犯罪となったことに表わされている。この人類に対する罪 はヨーロッパ全体が絶対的に共有するモラルとなったはずだった。
そしてそのヨーロッパで大量虐殺-ジェノサイドが起こったのだ。それは今という時間、白い肌を持つ人々、そこはカンボジアでもルワンダでもなく、アドリア海をはさんだイタリアの隣、世界中の観光客が集まるベニスの賑わいが聞こえるところで…。
 ジェノサイドの行われた95年7月、情報はフランスに、イギリスに、ドイツに、そしてアメリカに断片的に伝わっていた。しかしヨーロッパの国家、政府、すべての人々にとってそんなことはありえないこと、絶対に起こりえないことだった。しかし起こりえないことが起こってしまった。この衝撃は図り知れないものだった。その衝撃の大きさがマイケル・ウィンターボトムに「ウェルカム・トゥ・サラエボ」を撮らせた。
 99年3月から78日間にわたってつづけられたNATO軍によるユーゴ空爆は、このスレブレニツァでのジェノサイドの再現への恐怖だったはずだ。NATOが国連安保理の決議を待たずに軍事行動を決意したのは、セルビア民族主義者のコソボでのアルバニア系住民への再びのジェノサイドが現実に起こりうることへの恐怖だったのだと思う。

■人に言われたことなら何でもやる。アウシュヴィッツで何千人も見たはずよ。
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 高校2年の夏休み私はブント系の高校生組織の中心的な活動家になっていた。ブントが分裂し塩見孝也率いる赤軍派が生まれ、さらに前段階蜂起-国際根拠地という論理から国際主義を前面に掲げる日本赤軍が生まれた。田宮高麿らはよど号を乗っ取り朝鮮民主主義人民共和国に渡った。重信房子らはパレスチナに渡ってパレスチナ解放運動に加わった。私も当然のようにパレスチナ解放運動を支援しイスラエルを糾弾した。しかし心の中には理解できないことがあった。それはナチスによるホロコーストの悲劇をうけたユダヤ人がどうしてパレスチナの人々を迫害し、そればかりかユダヤ人一人が殺されたら十人のパレスチナ人を殺すとまで言い切るのかということだった。私の知っているユダヤ人はアンネ・ フランクであり、過酷な運命に翻弄される心優しい人々のはずだった。
 カート・ヴォネガットの「母なる夜」という小説がある。第2次大戦時ナチスドイツの対米宣伝放送をした劇作家が実はアメリカのスパイで、その劇作家ハワード・キャンベル・ジュニアの戦後の生活を描いた小説だ。そこでは戦後ドイツにもアメリカにも受けいられない主人公の孤独がペーソスをもって語られている。そして小説に偶々登場するユダヤ人母子は、ナチスのホロコーストをくぐり抜けた母親と、自由なアメリカで生きるユダヤ系アメリカ人の息子だ。母親は言葉の端々にホロコーストの悲劇を語ろうとする。現代を生きる息子はホロコーストの悲劇を封印して語ろうとはしない。母親は自分たちを『人からあっちへ行けと言われなくては動けない、次に何をすればいいのかいつも人に命令し てもらうのを待っている、人に言われたことなら何でもやる。アウシュヴィッツで何千人も見たはずよ』と言う。10年ほど前この本を読んだ私は、ユダヤ人がパレスチナ人を迫害する理由が分かったような気がした。
 イスラエルの人々が歴史の抑圧者として手を下す力、M16の引き金を引く指には憎悪は込められていない。少なくともホロコーストを生き延びてきたイスラエル建国の世代はパレスチナの人々に対する憎悪は持っていないと思った。だとしたらどんな力がパレスチナの人々を抑圧し、殺す力になるのだろうか。その力は自らに対する怒りではないだろうか。拡声器から大音量のワーグナーが流れるアウシュヴィッツで、羊の群れのように黙って殺されていった自分たちの姿への例えようもないような悔悟、怒り、恥辱、それらはすべて自らの内に向けられたものだ。こんな場面がある。『ゾンダーコマンド(sonderkomando)は特務隊という意味である。アウシュヴィッツでは囚人からなる特務隊は正に特別任務を負っ ていて、死を宣告された人々をガス室に導き、あとからその死体をひきずりだす仕事を遂行する。義務を果たすとゾンダーコマンドの隊員もやはり殺される。新しい隊員がする最初の仕事は前の隊員の死体を始末することだ。ずいぶんたくさんの人間がゾンダーコマンドに志願した。…キャンプ内にはいたるところに拡声器があっていつも音楽が流されていた。そしていつも音楽が途中で切れて連絡放送が始まった。子守歌みたいに低い声でやる連絡が一日に何度もゾンダーコマンドを呼んだ。"Leichentrager zu Wache"つまり死体運搬係は衛兵詰所へ。音楽の合間合間にその声を聞いているうちに突然死体運搬係というのがひどく良い仕事みたいに思えてきた。』
 血に汚れたファシストの指を舐める自らの姿、自己に内在する人間としての誇りを失う恐怖、それこそがイスラエルの人々のパレスチナの人々への迫害と抑圧と戦争の原動力になっているのではないだろうか。

■われわれはどこから来たか、われわれとは何か、われわれはどこへ行くか
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 ジェノサイドが引き起こされることへの恐怖としての暴力。自己に内在する人間としての誇りを失う恐怖としての暴力。ボスニアでのジェノサイドとナチスのホロコーストは同じではないだろう。しかし人類はことあるごとに大量虐殺を行なってきた。カンボジアでルワンダでボスニアで、人種も宗教も地域も越えて、それは現代に至っても大量虐殺があたかも人類の普遍的価値であるかのように、あたかもヒトという種の習性と思えるほどに。
 私たちは歴史の中で自由と平等な社会を勝ち取ってきたはずだ。人類が共有する倫理として人を殺すことは絶対的な悪であり許されることではない。倫理とは行為に対して自ら課する制約としては理想的なものであり、私たちはこの倫理を歴史の中で進化させ、共有してきたはずだ。そうであるにもかかわらずジェノサイドは終わることなくつづけられる。
 私は学生運動の退潮期テロリズムを含む内ゲバを経験した。それは正義に名を借りた殺人、目的意識をもった殺人だった。そしてその正義はイデオロギーという重武装した論理、あるいは倫理だった。青春を賭けたマルクス主義は階級闘争を通じて搾取と収奪をなくし、自由で平等な世界を作るはずだった。にもかかわらず目の前にあったものは「血で血を洗う党派闘争」だった。しかも私はカンボジアが解放された1975年、ポルポトの急進的な共産主義化を支持しさえした。しかし実際にカンボジアで起こっていたことは地獄のような殺戮であった。キリングフィールドと言われたカンボジアでは100万人に及ぶ人々が虐殺された。それは紛れもない現代という時間、私が生きているその時間の中で。
 人を殺すことのできる正義とは何だろう。そんな正義があるのだろうか、しかし戦争は常に正義のためのものだ。コソボ、ボスニア、パレスチナ、イラク、イラン、アフガニスタン、チェチェン、この10年の間に起こったどの戦争でも当事者どちらの側も正義を語ってきた。マルクス主義、イスラム原理主義、民族主義、自由主義、キリスト教原理主義、そのどれを取ってもイデオロギーは人を殺す正義に武装する論理でしかないような気がしてならない。スレブレニツァで起こった悲劇は人権を最も重要な侵すべからざるものとして掲げるヨーロッパで起こったことに衝撃がある。この衝撃は何度言い尽くしても言い尽くせないほどに大きい。ナチスによるホロコーストをへて人権を人類の最も守るべきもの としたヨーロッパ、人類の知的遺産を受け継いでいることを自負するEU域内で起こるジェノサイド。私たちは一体どこに自らの精神的支柱を求めて立ちうるのだろう。果てしなく繰り返される殺戮を思うとどうしても虚無的になってしまう。それが激情でも衝動でもなく、正義に名を借りた、目的意識をもった、その正義がイデオロギーという重武装した論理であるが故に一層絶望的にならざるおえない。
 ナチスはアーリア神話を . 600万人に及ぶユダヤ人の大量虐殺の理論的支柱とした。『アーリア人は人類のプロメテウスである。神々しい天才のひらめきはいつもアーリア人の輝く額からほとばしり出た。…人類の文化を創った者はアーリア人だけだ。アーリア人を消し去れば、地上は暗い闇につつまれ、人類の文化は消え失せ、世界は荒廃するだろう。』これがナチスの歴史哲学だった。この驚くほどの稚拙で短絡的な論理が600万人のユダヤ人を殺戮したという事実を思うとこうして引用することすら嫌になる。
 1章の鎌状赤血球貧血性の項の中で、「ヒトの集団の中でいくつかの遺伝子が存在するという多様性が平衡状態を保って存在しているという典型的な例だ」という文章を書いた。「遺伝子の多様性」この言葉は、金髪碧眼に象徴される純血を守ろうとするナチスには到底受け入れられない言葉だ。エスニック・クレンジングの蛮行を行なったセルビア民族主義者にとっても受け入れられない言葉だろう。また進化の概念として「すべての生き物は偶発的変異による自然選択によって進化してきた」さらに「すべての生物は斉一性という一点に収斂する」と書いた。これらの言葉もアーリア神話を奉ずるナチスには受け入れられない言葉だろう。
 ジェノサイドは人種、民族、宗教、思想の違いを排外主義的に扇動することによって行われてきた。また血統による差別は同一の集団の中ですら行われてきた。イギリスの遺伝学者リチャード・ドーキンスがこう語っている。『イギリスでは自分が女王の親戚だと自慢する者がいるが、実際は誰もが大なり小なり女王の親戚なのだ。貴族と貴族でない者の違いは、前者が自分の血統をひどく気にかけ、注意深く綿密に記録をとっているだけのことにすぎない』と。
 両性生殖は遺伝子変異を生み出すために存在するようになった。種の連続性だけからいえば単性生殖で十分のはずである。それをわざわざ両性生殖として進化したのは単性生殖より変異固体の生まれる確率が大きくなるためだ。雄と雌という異なる個体での繁殖は、一つの個体の中で行われる単性生殖よりもはるかに新しい遺伝子変異を生む。その結果ある病原性生物の流行からその種の絶滅を防ぐことになり、気候変動等の環境の劇的変化に対しても同様な働きをする。まったく同一の遺伝子では環境変化に対して絶滅という同じ対応しか取りえないのに対し、遺伝子変異は時として環境適応、抵抗性をもつ個体を生み出し種の絶滅を防ぐことになる。人間の存在を地球上に生命を得た一つの生き物として の進化として語る時、いかに純血、血統、人種、民族などというものが意味をもたないものであるのかが分かるはずだ。取り分け自分たちの集団とそれ以外の集団にヒエラルキーを設け排外主義を煽る優勢思想は、ヒトの多様性を否定し、20万年に及ぶ営々としたヒトの進化を否定し、結果としてヒトという種の絶滅を招来するようなものに他ならない。
 今私たちに求められるべきものは高々と正義を掲げたイデオロギーではなく、人間の存在を地球上に生きるひとつのささやかな存在でしかないということを認識することではないだろうか。私たちの身体には例えようのないほどに長い時間受け継いできたものがある。それは私たちがヒトとなるはるか太古の時代から連なる一本の生命の糸のようなものだ。そうした環境の中でのささやかな存在でしかないものとして私たちを語る時、はじめてイデオロギーではない新たな地平が拓けてくるように思う。そしてその地平こそが私たちを見つめることができるはずだ。それはホロコーストを、ジェノサイドを今ここにある罪として見つめることであり、さらに人間の活動の結果として毎年絶滅しつづけていく2万7 000種の生き物との共生としての地平として。
 ポール・ゴーギャンの「われわれはどこから来たか、われわれとは何か、われわれはどこへ行くか」という絵がある。結び目だらけの麻袋に直接描かれた絵には、ゴーギャンの生涯を貫いた文明と原始の対立が、遠近法を無視して大胆に描かれている。画面の中央で女が果実を摘んでいる。その向こうには自らの運命の前に立ちすくむ女たちが、右端には静に眠る幼児が、そして左端には死を間近にした老婆が強く鮮やかな色彩で描かれている。それは喜びと恐怖、安らぎと不安がとけあい生そのものの意味を問いかけているかのようだ。
 私はこの"Wish,Helpless,Desire."を書くことでいったいどこへ行こうとしているのだろう。果たしてその答えはどこかにあるのだろうか。こうして書き終えても何も答えは見つからないでいる。しかし迷路のような淵に追いやられた私にとって、それを探しつづけていくことが生きていく理由なのかもしれない。それはあたかも貧窮と病気と孤独の中で死んでいったゴーギャンの『希望するとは、ほとんど生きることだ』という言葉のように…。