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 挑むように見開いた眼、真一文字に結んだ唇。両腕をくみ決然と立つ姿からは満身の怒りが込み上げている。レーピンの描いた「皇女ソフィア」だ。
 イリヤ・レーピンは19世紀ロシアリアリズム絵画を代表する画家だ。透徹したリアリズムで対象を描き切るレーピンの眼はモデルの内面を深く正確に捉える。
 「皇女ソフィア」は異母弟ピョートル1世との権力闘争に破れ僧坊に幽閉されているソフィアを描いている。僧坊の窓の外には処刑された皇女派の遺体が吊るされ、ソフィアの後ろには恨めしげな眼をしたペイジが控えている。ソフィアの衣装はまるで3D画像のように立体的で、マチエールは金銀のシルクの輝きそのものだ。そして画面の中央に立つソフィアは怒りのなかにも皇女としての威厳を失ってはいない。


 イリヤ・レーピンはそのリアリズム描写においてロシア移動派の代表的存在だ。レーピンの描く肖像画は画家の心理的洞察力の前にモデルの内面世界を否応なく浮かび上がらせる。
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 例えば「作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像」では、虚ろな眼をしたムソルグスキーがキャンバスの中央にいる。明らかにアルコール依存症の赤ら顔からは大作曲家の姿を感じることはできない。このときムソルグスキー42歳、レーピンが描いた十日後にムソルグスキーは亡くなっている。
 レーピンは肖像画と同時に群像表現にも希有な才能を発揮している。
 「ヴォルガの船曵き」はレーピンを代表する群像画だ。十人余りの曳き船人夫たちが重い船を岸辺に曳いている。社会の底辺で生きる曵き船人夫たち。しかし画面から鋭い視線を投げかける4人目の男のようにレーピンは過酷な労働のなかにも誇りを失わない人物像を描ききっている。

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 そうした貧しい者への共感は「背の曲がった男」にも現されている。レーピンは「クールスク県の十字架行進」を描いた際そこで出会ったせむしの青年を忘れることができなかった。その後レーピンは青年と親交を結び、彼の内面の美しさを、柔和な顔と輝くブロンドの髪で描くことでロシア美術史に残る慈愛に満ちた気高い農民像を描いた。これこそイリヤ・レーピンが一時期社会主義リアリズムの旗手のように語られた所以だろう。
 確かにレーピンは社会の底辺に生きる人々を温かい眼差しで見つめていた。しかしそれは革命ロシアの社会主義思想に迎合した絵を描いたことではなかった。レーピンはナロードニキを題材にした「宣伝家の逮捕」や「懺悔の前」を描いたのと同じように、「イワン雷帝と皇子イワン」のような史実も描いている。つまりレーピンにとって絵画は肖像画を描くことであるとともに、社会性を持った風俗画や歴史画を描くことで画家としてのバランスを取っていたように思う。
 美術館を一巡して出口で反芻してみた。レーピンの絵の精神性の高さに震えるような感動が押し寄せてくる。「皇女ソフィア」の前ではしばらく動くことができなかった。「集会」では身を乗り出して革命を説く青年インテリゲンチャに若かった頃の自分を重ね合わせた。しかし一番心に残っていた作品は心からの信仰と廉潔、優しく眼を細めた長いブロンドの髪の気高い青年像「背の曲がった男」だった。

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