アレクシ・ド・トクヴィルが「アメリカの民主主義」のなかでこう述べている。
 『民主制の危険性は多数派による横暴である』
 つまり議会の多数派、なかでもポピュリズムに扇動された多数派が決議を押し通すことの危険を述べている。今の日本の状況は、正にトクヴィルの語る民主主義の危険そのものだ。
 安倍政権がアベノミクスの好調を良いことに改憲を推し進めようとしている。その第一のターゲットが憲法96条だ。つまり憲法改正のハードルを低くしようとしているのだ。
 ここで考えなければならないことは、何故憲法改正のハードルが高く設定されているのかということだ。これは日本国憲法に限ったことではなく、民主主義国家であればどこの国の憲法も改正には高いハードルが設けられている。それはどうしてなのだろう?

 憲法はその他全ての法律と根本的に違う法律だ。その根本的な違いとは、憲法以外の法律の名宛人は国民ないしその国に居住する人々であるのに対して、憲法の名宛人は国家である。つまり憲法には、国が国民にしてはいけないこと、或いは国民にしなければならないことが規定されている。
 そして憲法が国に求めている最も重要なことは、人々の「生命、自由、財産」を保障することだ。それが憲法13条の個人の尊重であり、19条の思想信条の自由であり、20条の信教の自由であり、25条の生存権の保障であり、31条の法定手続の保障である。
 憲法に定められたこうした規定は、自然権思想に基づいた近代国家成り立ちの根本的な理念である。
 蓋しトクヴィルが語った危険とは、国家が一時的な多数派の声で権力行使の規定を国家自体が軽々に変えることの危うさなのだ。
 国家つまり政権-為政者にとって憲法とは、煩わしくて面倒臭くて鬱陶しい強力な規制だ。そしてその強力な規制こそが歴史上明らかに国民の権利を権力から守ってきたのだ。

 ジェラルド・カーティスが安部政権の改憲姿勢に厳しい論壇を張っている。
 ジェラルド・カーティスは戦後日本の政治を動かしてきたジャパンハンドだ。小泉政権もジェラルド・カーティスの信任の上で郵政民営化をはじめとした規制緩和を行ってきた。
 そしてカーティス、つまり米国の最も神経に触ったことは安部が度々口にする「レジームチェンジ」という言葉だ。レジームチェンジ、すなわち体制変革だ。安部の口にするレジームチェンジとは戦後体制の変革であり、その意味で米国が日本に与えてきた戦後体制そのものの清算だ。安部は日米同盟の根幹であるレジームを変え「普通の国」になろうというのだ。つまり憲法を改正し、国防軍を創設し、核武装し、歴史観をも改めようとしている。
 ここでレジームチェンジの議論に深入りするつもりはないが、ジェラルド・カーティスの言うように、戦後70年近く日本は日本国憲法の下で平和と繁栄を享受してきた。だからこそカーティス、そして米国は苛立ちを隠さないのだ。

 バラク・オバマが先に国連でLGBTに関してこう演説した。
 「愛する対象が誰であるかを理由に人々の権利を否定してはならない」
 この言葉の根底にあるものは、権利の保障とともに自由の保障だ。そして人々の権利と自由を保障する根拠こそが憲法なのである。米国にとっても憲法は国民の権利と自由を国家から守る最強のものなのだ。
 つまり日本国憲法を改正するのであれば、憲法96条を改正してハードルを低くするという姑息な手段をとるのではなく、堂々と議論を深め国民全体が納得する改正にしてこそ憲法が国の根本規範であり、国民の権利と自由を保障する最強の規範となりうるということを今こそ私たちは肝に銘じなければならない。

tokkuns
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