自粛することを自粛せい~クシマばあさん7 | 音楽でよろこびの風を

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世間を騒がす夫婦音楽ユニット 相模の風THEめをと風雲録

こんないしはらでも、野暮用で忙しいのですよ。
あの口が悪い、しかしいろいろな智恵を持つ偏屈ばあさん、
クシマばあさんのところに通うのも、ちょっと間が空いてしまった。

「ばあちゃん、こんにちは!」
『ウチに来るの、自粛しておったのか?』
「はぁ?いやいや、ごめんね。この一週間仕事だライブだ、忙しくてさ。」
『ほう、手前のようなうすらトンカチでも忙しいことがあるんか?』
「ごめんごめん。なんだ、淋しかったんだ。そりゃそーだよなー。
オレくらいしかばあちゃんのこと気にかけるやつ、いないっしょ。」
『じゃかあしい。誰が手前なんぞのことを待っておるもんか。』
「でもさぁ、今年は桜祭りもなくなっちゃったし、
イベントなんかもだいぶ減っちゃってるし、ぱっとしないねえ。」
『うすらよ、自粛の言葉の意味を知っておるか?』
「えー、自粛ですか?えっと、その。
自分から進んで、何かをすることをやめること、ってことですかね。」
『おお、うすらにしてはまぁまぁじゃの。ヤッホーの辞書を見てみたら
”自分から進んで、行いや態度を慎むこと”と出ておったな。』
「あ、ばあちゃんそれヤッホーじゃなくてヤフーだな。」
『いちいち揚げ足取らんでええ。このうすらとんかち!
でだなぁ、ポイントは”自ら進んで”というところにあると思うんじゃ。』
「はぁ。まぁ言葉の意味を考えるとそうですよね。」
『たとえばじゃな、うすら。お前のすぐそばに、
とても悲しいことに見舞われた人がいて、泣いておるとする。
どうする、うすらとんかちならば。』
「え~~。時と場合によりますけれど、
事情を聞いて慰めようとするんじゃないでしょうかね。
もし僕でもなんとか出来そうなことがあれば、
そのために動くこともあるかもしれません。」
オレ、ホントにそんな優しいやつなのかな?と軽く自問自答してみる。

『ほほう、殊勝じゃな。
じゃが、その夜には手前はパーティに芸人として呼ばれているのじゃ。
そしてパンダの着ぐるみを着てコマネチ百回やる、と主催者と約束している。』
「スゲー約束。また、コマネチですか?」
『わしゃ、好きなんだよ。コマネチが。
で、どうする。手前はコマネチやるのか。そもそもパーティに出席するのか?』
「うわア、難しい質問だ。ちょっと考えてもいいっすか?」
沈思黙考30分。長い。

「おばあちゃん、答えが出ました。」
『ほう長考の末じゃの。ない脳みそを振り絞ったの。』
「まず悲しんでいる人です。なぜ泣いているのか聞きます。
話をちゃんと聞くだけでも本人は楽になるはずだし、
僕に何とかできることなのかどうか判断もつけやすいと思います。
僕に1時間以内にどうにかできることだったら、
その範囲内で手を尽くします。
なぜ1時間かというと、夜にはパーティの約束が入っているから。
どうにもならないことだったら、
どうにかできそうな人を見つけてバトンタッチします。」
『じゃあ、自粛はせんわけだな。』
「そうですね。その状況ならばしないでしょう。」
『お前コマネチに使命感持っておるんじゃないのか??』
「ば、ばあちゃん、そうじゃなくってさ。」
『だが、その人の悲しい話を聞いて、
お前も悲しくてコマネチどころではないかも知れんぞ。』
「いや、ばあちゃん、オレこう見えても”芸人根性”
ってやつは結構あるんですよ。」
『それは立派なことじゃ。』
なんか皮肉な調子が気になるなぁ。いつもよりイジワルか、ばあさん??

『では、こういうのはどうじゃ。
泣いている人がいるのなら、わたしも一緒に泣いてあげよう。
そういう人も世にはいるかと思うが、どうじゃ?』
「ばあちゃん、それは違うと思うな。
話を聞いて受け止めるのは大事だけど、
一緒に泣いてあげる、ってのはなんか違うよ。
うーん、おこがましいというか、ちょっとエラソーというか。
オレが悲しい立場で一緒に泣いてくれる人がいたとしても、
ちっとも嬉しくないし、悲しみも減らないと思う。」

『あのな、うすら。今この日本を覆っている自粛というのは、
言葉本来の自粛ではないのだ。
自らの意志で進んでそのことをやめるのではなく、
”そういう空気ではないから””とやかく言う他人の目や口が気になるから”
やめておるものがほとんどじゃ。
今、結婚式ですらキャンセルが相次いでおるらしいぞ。
ええか、自分がいろいろと感じたり、考えたりで
どうしても楽しいことをやる気にならない、騒ぐ気になれない。
それはその人にとっては正しいこと。言葉本来の自粛じゃ。』
「そうですね。自分の気持が今楽しむ気になれない、
それが素直なものなら自粛すべきでしょうね。」
『でだ、今の自粛は、大変な目にあっておる東北の衆に対して
”あの人たちが大変な思いをしているのに、楽しんだり騒いだりは申しわけない”
という部分が大きい。そういう気持がが多い人は自粛したり、
人にもそれを言ったりするのじゃな。』
「そうですね。」
『似ておらんか?』
「じいちゃんのキン○マ袋にですか?」
『どあほ!!!こんなところで神聖なる
じいちゃんのキン○マ袋を持ち出すんじゃない!』
(神聖だったんだぁ、袋って)
『エエか、ワシが似ておるというのは、さっき話した
”一緒に泣く人”のたとえじゃ。』
「あ~、はいはい。」
『のう、うすら。お前がそういう”一緒に泣いてあげる人”だとする。
そうしたら、一緒に泣いてお前元気出るか?すっきりするか?』
「いやぁ、すっきりはしないでしょうね。」
『ホントに悲しくて泣く人は自己治癒だ。意味がある。
だが同情して泣くやつなんぞはどちらとっても、何の役にも立たん。
屁のツッパリにもならんというのはこのことじゃ。
かろうじて”ワシもこの方の哀しみを共有したんだ”という
愚にも付かない自己満足が得られるだけじゃ。』
「きっつー。ほんとにそうですか?ばあちゃん。
今随分危険なこと言ってるけれど。」
『なーに、キヨシローちゃんが生きてたら、こんなもんじゃすまん。
ホントは経済のことも言いたいが、それを抜きにして話す。
心からの自粛以外は意味ない。』
「自分の意志ではない自粛は無意味だと。じゃあ、そうでない人は、
ばぁ~~っと騒いだり、楽しんだりしてていいんですか?」
『よい!コマネチコマネチ!!よいのじゃあ!!!』
あー、わけわからんスイッチ入ったなぁ。ばあさん全開かも。

『ええか、うすら。ワシら被災していない人間にはな、
被災した人の本当の大変さ、つらさは分からない。絶対にわからない。
今まで自分が経験したいちばんつらいことのなぁ、一万倍じゃ。
もう、想像つかんじゃろ?』
「ええ、もう脳みその許容範囲外ですね。」
『死ぬことの苦しみが分かるのは死んだその時じゃ。
分かった瞬間には死んでおるのじゃ。
だからな、同情が元の自粛は意味ないのじゃ。
他人の目を気にした自粛も意味ないのじゃ。
本当に自分が楽しんだり騒いだりする気持になれない人、
心の底からの哀悼追悼の気持を深く持っている人、
そういう人だけなのじゃ、自粛という言葉がふさわしいのは~~~~。』

まだ肌寒い4月初旬。
僕とクシマばあさんは、しょぼいレジャーシートとおにぎりを持って
近所の公園に行った。
三分咲きの、まだちらほらとしか咲いていない、
『北の地でも、桜はきれいじゃろうな。4月の半ばかの』
と、つぶやくばあさんの目から、
ばあさんに一番似つかわしくない滴がこぼれ落ちた。