義仲が敗れ去った後の都は、ほんの少しの間義仲や彼に従っていた者の処分に追われた。
義仲や今井兼平らの首は獄門に晒され、一軍を率いて河内国に攻め入っていた義仲の乳母子樋口兼光は処刑された。
また、法住寺以降に行なわれた人事は全て無効とされ、摂政師通は解任、前摂政近衛基通が再び摂政の座に返り咲いた。
師通は十三歳にして摂政の座を追われその後二度と政界に返り咲くことは無かった。

これらの戦後処理はきわめて簡潔に迅速に行なわれた。

義仲らの処分に手間隙をかけれない程、この頃の政界はある事を巡って深い混迷に陥っていた。

そのある事とは、未だに三種の神器が平家が奉じる安徳天皇の手元にあり、都に現在ある後鳥羽天皇の側にはないという事実をどうするかということである。

都に残る人々は後鳥羽天皇の正統性を主張し安徳天皇は既に退位したものと見なしている。
しかし正統でなければならない後鳥羽天皇のもとには皇位の証である三種の神器がない。三種の神器は安徳天皇とともにある。
どうしても三種の神器を安徳天皇、いや幼い安徳天皇を奉じる平家一門から取り戻さなくてはならない。

後白河法皇の御所において連日そのことに関して激しい議論が繰り返されている。
先の帝である安徳天皇と三種の神器の安全な都への帰還を優先しようとする者達は
平家との和平を主張し、あくまでも和平による三種の神器の帰還を主張する。
一方、平家との和平を嫌いあくまでも武力行使によって無理矢理にでも神器を取り返すべきと主張して止まないものたちもいる。
主戦派は現在丁度鎌倉軍が都とその近辺に在ることを好機と考え彼等に平家を追討させようと考えている。
和平派は平家が侮りがたい程の勢力を保持して、都に近い福原にいることを警戒している。

和平派と交戦派は政界を真っ二つにしてお互い譲らず中々結論が出ないまま時間だけが過ぎ去っていく。

このような混迷を極める政界とは裏腹に、都の中の人々は新たなる戦の噂におびえながらも久々の平穏を取り戻しつつあった。

都に入った鎌倉軍が都の庶民に対しては一切の狼藉を行なわずまた都の治安維持に尽力していたからである。
鎌倉軍は出立する際、多くの兵糧と物資を携えて都に上っていた。
それゆえ都やその周辺から義仲らがかつて行なったような物資食糧の強奪が行なわれなかった。
また、彼等を指揮する源九郎義経と彼を補佐する軍目付梶原景時によって都の中に入った軍の統制がきちんととれている。
鎌倉勢は都の治安をよく維持している。

都が混乱に陥らなかった最大の理由がもう一つある。
東国から大軍を引き連れて上洛した鎌倉勢の主力が都に入らず、近江に滞在しているからであった。
都に入った鎌倉勢は義経率いる少数の搦手勢と義経の友軍安田義定、そして勢多から義仲を追ってやってきた一条忠頼、大手軍の軍目付土肥実平率いる手勢程度で
他の鎌倉御家人たちや甲斐源氏の一党は未だに近江勢多付近に滞在しているのである。

義仲らが上洛した際大混乱がおきた要因の一つに北陸と東海道から引き連れてきた大軍が一気に都に入ったという部分もあった。

その前轍を教訓に、鎌倉勢は軍の大部分を都の一歩手前に止めていたのである。
近江にいる大軍を統制しているのは蒲冠者源範頼。
範頼の統制の元、近江に滞在する鎌倉勢も略奪等は行なわなかった。
そして彼等が次にどのように動くべきなのか、都の情勢を固唾を呑んで見守っている。
近江で不気味なほど静かな沈黙を湛えながら。

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皆さんもよくご存知のことと思いますが、日記類や軍記物に記されている日付は旧暦の日付なので現在の日付とは異なります。

現在の日付より一ヶ月くらい遅れている場合が多いようです。
しかし、それには当てはまらない年もあります。
前年に閏月があった場合です。

閏月とは、旧暦において数年に一度ある一年に13月ある年の13月目のことをです。
(十三月とは言わず、どこか適当なところに閏〇月というのを作ります。例 閏二月)
この月があった後の数ヶ月の季節の換算は少し気をつけなければならないようです。

さて、鎌倉勢と木曽勢が激突したのは旧暦の寿永三年(1184年)1月20日です。
その日付をwikipediaで調べました。
寿永三年1月1日は現在の暦に換算すると1184年2月14日です。
とするならば、1月20日は1184年3月5日になります。
前年の寿永二年(1183年)に閏10月があったため、寿永三年の暦の前半は現在の暦から一ヶ月半程ずれていることになります。

現在の3月5日ならば、寒さは少し残っているものの、季節はどんどん春に向かう頃といえるでしょう。
「平家物語」諸本の中には、この戦いの日比叡山の雪解け水が琵琶湖に流れ込んでいた為、そこから発する宇治川の水量が多かったと記載している本があります。
確かに、春の到来が早い年であるならばそのような状況も起こりうるでしょう。

また、木曽殿最期の場面で、義仲が深田とは気が付かないで入り込み、そこに張っていた薄氷が割れて馬がぬかるみに足を取られたというように書かれています。
深い田ー水量の多い田んぼの氷が実はかなり薄くなっていて人馬が乗った瞬間簡単に割れる
これも春先によく起りうる現象だと思います。

旧暦とは知りつつも1月と聞くとついつい真冬を想像してしまうのですが、
太陽暦に直すと実は春先。

これはこの戦いだけではなく、色々な事件について考察する上でも気をつけなければならないことであると思わせていただきました。

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前の記事で「源平闘諍録」を取り上げたので今回もこれに触れたいと思います。

さて、頼朝の挙兵後も反頼朝の立場を取り続けていた常陸国(現在の茨城県の大部分)の佐竹氏ですが、この反抗は富士川の戦い(1180年10月)の直後の頼朝軍の佐竹攻め(1180年11月)において終結したと見なされることが多いようです。

しかしながらこの佐竹攻めの際佐竹氏の当主佐竹隆義は在京中、金砂城に籠もっていた佐竹秀義は戦線離脱後逃亡して健在でした。
そして「玉葉」や「延慶本平家物語」の記載によると、佐竹氏はその後数年間時々常陸に舞い戻ってゲリラ的に頼朝に対して反抗していたようなのです。
(金沢正大「治承・文治大乱に於ける佐竹源氏-治承・寿永内乱から奥州兵乱へ-」『政治経済史学』176号177号 1981年1月,2月 川合康 「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」吉川弘文館)

さて、この見解を踏まえつつ「源平闘諍録」を読んでみると面白い記載があるのに気が付きました。
巻七『佐竹太郎忠義、梶原に生け捕られる事』の部分です。

ここの内容は、佐竹忠義が常陸の豪族たちを引き連れて下野に向かい、足利俊綱を語らって頼朝を討とうとしますが、足利俊綱が忠義の誘いを断った為、忠義は常陸国に戻ります。
その後頼朝が十月二十日佐竹忠義討伐に向かいます。その際、梶原景時が忠義を騙して頼朝の前に連れてきます。そしてその直後忠義は殺されます。

↑がその内容です。

この内容は富士川の戦いの後に記されていて、その後前回書いた『上総介頼朝と仲違いする事』に続きます。

読みようによっては「吾妻鏡」に出てくる「1180年11月4,5日」の「金砂城」における佐竹攻めのアレンジに見えなくもありません。

しかし、「吾妻鏡」と照らし合わせると色々な点で不一致が出てきます。
先ず日付の問題。
「源平闘諍録」では、10月20日になっています。
しかし、1180年10月20日は頼朝はまだ黄瀬川(富士川の手前)にいます。
そして「吾妻鏡」の佐竹攻めは「1180年11月4、5日」です。

そして登場人物の問題です。
「吾妻鏡」の佐竹方の主将は佐竹義政、佐竹秀義(隆義四男)です。
「源平闘諍録」の佐竹方の主将は佐竹忠義(隆義長男)。

このように考えると「金砂城」とこの忠義の挙兵は別の時期に起きた佐竹氏の蜂起なのではないかと思えるのです。

つまり、両方とも実際にあった出来事で、時期の違う佐竹氏の反頼朝運動であったのではないかと考えることが可能なのではないかと思われるのです。

そしてもう一つ気になることがありまる。
この忠義が最初に語らった「足利俊綱」
彼は、「吾妻鏡」によると1182年9月に頼朝勢によって討ち取られています。
そして彼の同族の足利忠綱が1183年2月の「野木宮合戦」で敗れ去っています。

この藤姓足利氏と佐竹氏の関係は実際どのようなものであったのか、また頼朝と彼等の関係はどうであったのか色々と考えさせられるところもあるこの記事への俊綱の登場となっています。

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