大村益次郎 浜田の旧跡 | 三重県の高校教員Nのブログ

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地理歴史・公民科の教諭が、日課のランニングや史跡訪問の様子等をレポート。

 大村益次郎を主人公とする司馬遼太郎の小説『花神』のクライマックス・シーンの一つが、この浜田城でした。

 幕末の1866年-。
 いわゆる「第二次長州征討(四境戦争)」において、芸州口・大島口・小倉口・石州口を舞台に幕府軍と戦う長州藩は、高杉晋作の奇兵隊の活躍や薩長同盟の効果もあって各地で連戦連勝し、結果として将軍死没を機に休戦し、事実上の勝利を収めました。
 石州口の長州軍を指揮したが、大村益次郎でした。

 「絶対に負けてはいけない」幕府軍が、外様大名に敗れました。
 大村の合理的な戦術の前に、敗れました。

 幕府軍の応援に来た各藩との間に不協和音があり、長州藩に対して有効に戦えませんでした。このあたりのことは、司馬遼太郎の文章で絶妙に描かれています。

 最後は、病に伏していた浜田城主の松平武聰(まつだいら たかあきら)は戦わずして海上に逃れ、城と城下には火が放たれました。
 残された地元民の気持ちは、どんなものだったでしょうか。
 松平武聰は水戸藩主・徳川家斉の十男です。つまり徳川慶喜の弟にあたります。佐幕派として、意地を見せたい気持ちはあったと思われますが、果たせませんでした。

 浜田城跡には、「浜田藩追懐の碑」があります。1989年の建立です。
 私は城郭マニアではありませんので、あまり多くの城跡を観てきたわけではありませんが、敗れた藩を偲んでこのような内容の碑文が刻まれる例は、あまり聞いたことがありません。
 でも、これはこれで素晴らしいと思いました。地元の人はどう感じているかわかりませんが、旅人の立場からは、(最期がどうだったにせよ)今は存在しないものを偲ぶ、もの悲しさを感じることができて有意義でした。
 以下に、碑文を転載します。



 浜田城

 石見国は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。
 石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。
 石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。 東に水田のゆたかな出雲があり、南に商人と貨財がゆきかう山陽道があり、西方には長門・ 周防があって、古来策謀がそだち、大勢力の成立する地だった。
 石見はそれらにかこまれ、ある者は山を耕し、ある者は砂鉄や銀を採り、ある者は荒海に漕ぎ出して漁をして、いつの世にも倦むことがなかった。
 浜田の地に城と城下がつくられたのは、江戸初期であった。幕府は、この城をもって、毛利氏という外様藩に対する最前線の牙城とした。
 以後、藩主は十八代を経、城は二四八年つづいた。幕末、西方の長州藩が革命化して、幕府の規制から離れた。
 長州軍は時のいきおいを得、また火力と軍制を一新させ、各地で幕軍を破った。
 ついには浜田城下に押しよせた。浜田藩は和戦についての衆議がまとまらず、さらには二十五歳の藩主松平武聰は病臥中もあって、曲折のすえ、みずから城を焼いてしりぞいた。明治維新に先立つ二年前の慶応二年(一八六六)のことである。
 いま、城あとは苔と草木と石垣のみである。
 それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。
 司馬遼太郎



 私たちは後世に生きるものとして、歴史という結果を知ってしまっています。
 しかしながら当時の長州藩が置かれていた状況を想像すれば、この四境戦争での勝利の「回天」ぶりに気持ちが震えます。

 私は2001年に初めて島根県を訪れましたが、当時の私が、山陰地方に引き寄せられた最大の史跡は、まさにこの場所でした。昨夏の訪問は、その時以来の再訪でした。

[写真は、島根県浜田市にて、浜田城跡の「浜田藩追懐の碑」]
(2013.8.16撮影)