高校2年生の日本史の授業で、先月、江戸時代の「列強の接近」を2時間かけて話しました。
大黒屋光太夫(三重県鈴鹿市白子の出身)、間宮林蔵、高田屋嘉兵衛、音吉、高野長英など、各々の苦労談の一つ一つが立派な教材になりそうな人物が目白押しの単元です。
小説化、映像作品化がなされていることもあり、非常に興味深いです。
当然ながら、この単元を毎年のように授業していますが、このうち1824年7月に発生した「宝島事件」について、今回はこの3枚の写真を使った教材を作りました。
イギリスの捕鯨船が、薩摩藩領の宝島(現:鹿児島県十島村=トカラ列島)に牛の譲渡を申し出て断られ、再上陸して強奪しようとしたところ、薩摩藩役人に1名が射殺された事件です。
この事件だけではありませんが、この一件も作用して、翌1825年に江戸幕府は異国船打払令を出しました。
私は、宝島に2度、行きました。
最初は、鹿児島県在住時代の2000年8月です。三重県の教員採用試験の1次試験に合格して、2次試験を待つタイミングでしたが、思い切って行きました。
2度目は、大学院在学中の2006年8月です。この翌月、隣りの小宝島で教育実習をさせて頂くにあたり、小宝島分校の本校にあたる宝島小中学校(併設)に挨拶にうかがったのでした。
1824年の事件は、高校の日本史Bの教科書に登場します。銃撃戦の現場は、現在は「イギリス坂」と呼ばれています。1991年に建てられた石碑に、事件の顛末が刻まれています。
高校生には、事件ならびにトカラ列島の紹介をしました。
「将来、行けるものなら、ぜひ一度、行ってみてほしい。」調の訴え方をしました。さらに「行くとしたら、社会人になってからではなく、大学生のうちだぞ。社会人は、お金は持っているが時間がない。学生は、お金はないが時間はたっぷりあるからだ。週2便の村営船が欠航したら、次の便は3~4日後だから、後ろの予定を空けておかないと。」と伝えました。
教材プリントをつくったり(写真を眺めたり)、授業の中で話をしていると、また行きたくなってきてしまいました。
現代日本にあって、交通アクセスが最も不便な場所の一つです。
鹿児島市の鹿児島港から週2便の村営船が唯一の渡航手段で、7つの有人島のうち最も南にある宝島は、鹿児島港から約12時間半を要します。7つの島の人口を足しても700人に満たない小規模なコミュニティーですが、自然の原風景に触れる癒し効果に加えて、人間が生活するのに必要な諸条件(ライフライン、人とのつながり、学校の存在意義)をいちいち確認させてもらえる、とても貴重な空間です。
ちなみに宝島の人口は、2012年8月末時点で116人です。
暮らすのと、短時間の滞在(旅行)とでは、意味合いが大きく異なることは重々承知しているつもりでしたが、しばらく島に行っていないこともあり、理想郷的なイメージが先行するようになっています。
戒めなくては・・。
[写真は、鹿児島県十島村(トカラ列島)宝島のイギリス坂]
(2006.8.22撮影)