東京大空襲 某教師の手記 | chopinのブログ

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日にちが経ってしまいましたが、先月書いた「東京大空襲」の続きです。タイトルの某教師、とは公立中学で生徒達の教育にあたっていた方で、ご自分の貴重な体験を11ページの手記に纏め、多分退職時に生徒達に送ったものか…と思われます、私は10年以上も前に、そこに通う生徒さんのお母様よりコピーを頂きました。

 

 

 

以前にも書いた通り、1945年3月10日、東京は2時間半弱の時間内に約300機(ここにある某教師の手記には300数十機、と表記)のB29約1800トンの焼夷弾が東京の町を焼け払い、特に下町が多大な被害を受けました。

 

B29は約 1万メートルから爆弾投下、一方日本側の戦闘機は8,500メートルの飛行高度が限界で、地上から撃つ高射砲も6,000メートルまでしか上がらなかったそうで、お話にならない戦闘でした。広島と長崎に投下された原爆の製造には非常なコストが掛かったそうですが、一方、焼夷弾は安く作れたとかで。。。だからと言って、絨毯を敷き詰めるような爆弾の投下、それも戦闘員でない市民10万人以上が犠牲になったというこの空襲は極悪非道で許されないバツレッド (もちろん東京の空襲だけでなく、日本中の大都市でアメリカ軍によって行われた空襲全て)

 

この元教師は、小学生でこの空襲を経験され、「戦争は痛ましいものだ」ということを是非とも生徒達に伝えたかったはずです。本当に貴重なこの体験記を、先生は平成元年に纏めています。

 

始めの記事は「コメでコメを炊いた話」というタイトルです。先生は隅田川から100メートルくらい離れた所に住んでいたそうです。買い出しでやっと手に入れたお米を、さあどうやって炊こうか、という時に、薪がないので、子供達は近所の焼けてしまった住居の台所から米びつを探し出し、その中の炭化したお米を家に持って帰ったそうです。これは子供達の悲しい日課だったそうです。当時お米は湿気から守るために、ブリキ製かホウロウ製の容器に保存されていたそうで、爆撃の後、容器内のお米は「お米の炭」に変化したのだそう。中には容器内に空気が入ってしまって燃えてしまったお米もあったそうだけど、2軒に1軒の米びつ内のお米は炭化していたようです。炭化したお米の塊を割って、七輪のコンロで火を起こすと、火力は普通の炭以上に強力だったということです。

 

2番目の記事は、「男は上を向き女は下を向く話」というタイトル。大空襲での死者のほとんどが焼死だったそうで、爆撃後の熱さから川に飛び込んだ人たちも沢山。3月10日ですから、川の水は冷たく、疲労のために水死、も多かったそう。隅田川はただ一本の川が流れているわけでなく、縦横に運河が掘られていたので、東京湾からの海水が流れ込み、1日に2回の満潮、干潮時には、水位は2メートルほども違ったそうです。この先生の家は前述のように川から100メートルほど離れていたのですが、運河の部分にたくさんの死体が集まってきてしまい、食事時でさえも窓からその光景が目に入ってしまうえーん。 気の毒に、小学生の彼は竹竿で申し訳なく思いながらも、流れ付く死体を押しやったと言います。それでも満潮、干潮は繰り返すので、また戻ってきてしまう。。。何百という死体がごみのように流れていた、と書いてありますタイトルの「男は上を向き女は下を向く話」は、多分女性は皮下脂肪のせいで、そうなのだろうか、と。中には背中に赤ちゃんを負ぶっている母親もいたと、正に地獄絵です。

 

3話目は「火の海の中から生き延びる法」と題されていますが、この方のご両親は関東大震災、大空襲、と災害・人災(戦争)を生き延びたそうです。空襲時の避難の様子が書かれていますが、警官と消防隊に誘導された場所へ進むにはあまりにも人が殺到して身動きが取れなかったために、両親と共に反対方向に逃げたそうです。あとで解ったことは、警官たちに誘導されて避難場所へ向かった人達は全滅だったそう。ご両親は、ご自分達の「とっさの行動」「運」に助けられ、2度とも(関東大震災と東京の空襲)火の海を脱出できたそうです。火の中を生き延びるヒントは、「風上に逃げる」というのが原則だそうですが、それも風上がいつも風上とは限らないそうで、別の火事が発生すれば、風下にもなる、ということなので、いつも冷静に現場で判断、ということになりますが、パニックになってそれどころではなくなるのが普通でしょう。また、もう一つのヒントは、最も火勢が強いのが、羽目板が焼け落ち柱が燃えている頃、でも棟が崩れ落ちたら火力は極端に落ちるので、そのあたりの道を通れば脱出も可能と書かれています。しかし最後に、「生死を分けるのはやはり運であり、その人の運命なのだと思えてならない」と記しています。 

 

他にも「の灰の話」では、戦後中学生になってからのお話で、体育館にあった、たった一つのボールを使って野球ごっこをしていた時のこと。体育館の床が、灰のような白いもので1センチほど覆われていたそう。運動靴もなく、スライディングで口の中にも灰が入り。。。あとで解ったのは、爆撃後しばらくして天井まで積み重なった死体の山、 その山が燃えた後の灰だった、ということ。偶然、早乙女勝元さんの岩波新書「東京大空襲」を読んで、「あの灰はそうだったのか。。。」と解ったそうです。記事は、「無念の死を遂げた無数の人々が、今も私の体の中にいる。私達はいつまでも東京大空襲の仲間」という言葉で締められています。

 

他にもいくつかお話が続き、校庭で木の棒を友達と蹴っていたら、注意してくれた先輩が近くの盛り土のある茂みに連れて行ってくれて、解ったことはそれが人骨だったこと、盛り土に埋めようと土を掘ると頭蓋骨が現れた、という話もありました。しばらく経って、仮火葬されていた遺体は東京都によって発掘・火葬され、引き取り手がない遺骨は東京都慰霊堂に納められているということです。

 

1945年3月9日、夜10時半頃に警戒警報のサイレンが鳴ったそうで、その後すぐ解除に。この先生は周りの大人が「アメリカさんは、明日が陸軍記念日であることを知っていて、今晩は寝かせないつもりかもしれない」など話していたのを聞いていたそうです。「鬼畜米英」と叩き込まれていた、と聞いていましたので、「アメリカさん」というのは驚きますが、目の前に差し迫った危険を感じるというより、まさか自分の生活が壊されるはずはない、という一縷の望みからだったのか。人間の特性と言えばそうなのかもしれません。まさか自分の身に何か重大なことが起こるなんて想像するのは辛すぎる。大丈夫、そう思わなければ生きていけない、と。

 

手記の最後に、先生は「生と死は紙一重」と子供心に感じていたと記しています。毎日死体を見て、死体が燃える臭いを嗅いで。。。でも、死体を気持ち悪いと思ったことはなかったそうです。横たわっている死体は、一瞬違えば自分だったかもしれない、だから「自分と同じ仲間」と思っていた、と言います。そして、最後の最後に、「正義の戦争は無い、あるのは狂気だけだ」と。 「人類は自ら信ずる正義のために戦争を繰り返してきたが、どんな戦争でも人が人を殺しあう戦争は狂気だ」と。

 

湾岸戦争での日本の間接的な戦争介入も是認できないことだと触れています。中村哲さんが連合軍のアフガンへの侵攻について、アフガンの実情は世界が見ているものとは違う、と国会答弁で主張していたのと重なります。3月10日は東京都が「平和の日」とした、と書かれています。(恥ずかしいことに知りませんでした) 先生は「多国籍軍の戦闘を支持し、正義の戦争を信ずる人の前に、残念ながら『平和の日』など決して来ない」と手記を締めています。

 

この夏、ちょうど東京都慰霊堂、そして隣接していた東京都復興記念館の前を車で通りました。慰霊堂には関東大震災、太平洋戦争の犠牲者、計16万体以上の引き取り手のない遺骨が安置されているということです。復興記念館では、この二つの災害についての歴史を振り返ることが出来るそうですので、いつか訪れてみたいと思います。