(前編からの続き)
イスラム教のなかにス-フィ-と呼ばれる人々がいる。
彼らはイスラム教のなかにあって、しかもある意味、それをはるかに超えている。
彼らは非常に特異な人々だ。普通の人には、彼らを見わけることはできない。たいてい、彼らはひっそり世間に隠れているからだ。
あなたの靴をみがいている男が、実はス-フィ-の師かもしれない。市場(バザール)で野菜を売っている商人がそうかもしれない。
あなたがほんとうに真理を求めているということがわかるまで、彼らは姿をあらわさない。彼らがその気にならなければ、あなたにはけっして彼らを見わけることはできない。
しかし、彼らは生き生きとしている。
彼らは愛に満ちている。
そして叡知のエッセンスをたずさえ、真理をもとめる人々にわかちあっている。
仏教のなかから禅という鬼っ子が開花したように、イスラム教のなかからス-フィ-というユニ-クな花が咲いた。
彼らはつねに少数派であったが、それは本物の証明でもある。
いつの時代でも、教義教論を声高にふりかざし、宗派の規則をもって自分自身をがんじがらめにできる人々が多数派をしめるものだ。
彼らはイスラム教という大河の小さな支流にすぎない。だが、そこには生の真髄がある。
ス-フィ-とは「色を染めていない布」という意味である。彼らは世間の色に染まらず、真実に生きる。
彼らは神を「恋人」と呼び、その道を「愛の道」と呼ぶ。
禅の世界で座禅や公案が用いられたように、ス-フィ-の世界ではワーリングと呼ばれる旋回する瞑想法と、いわゆるス-フィ-・ストーリーと呼ばれる真理の物語りが用いられてきた。それらは、着飾ることなく、直截に「愛」と「真理」は同じものであるという洞察と、その道をさししめしている。
この短い物語りはス-フィーの師たちだけでなく、インドのほとんどあらゆる師たちによって語りつがれてきたものである。なぜなら、このなかにもっとも単純で、重要なヒントがもののみごとに言いあらわされているからだ。
第一に、教えは言葉によってはなされない。
師は実際にそれを体験できる機会をつくり、それを使って教えている。そうすることによって、教えは弟子の細胞全体にいきわたる。
師は弟子の問いにすぐには答えない。なぜなら、頭で理解してもなんの用もなさないからだ。
弟子はマインドのなかにいる。師は薄っぺらなマインドの疑問を、生きるか死ぬかの実存的な次元に変容させる機会をうかがっている。
そのときに、「死ぬ気で、一生懸命求めなさい」と言うのは本当の教えにはならない。それは、弟子を実存のレベルにまで落としこまない。だから、師は「機会が来たら教えよう」と言ったのだ。
第二に、その教えとは、真理を実現するためにはそれを全身全霊で求めなければならない、ということだ。
弟子のマインドは、水のなかで「息」することだけに集約された。
一分たち、二分たつうちに、酸素をもとめる欲求はマインドを越え、肉体を越え、エネルギ-体を越え、実存の深い核にまで達する。
そのもっとも内奥の存在の核が揺り動かされる体験が、言葉では伝えられないものをさししめすのである。
「それぐらいおまえは本当に求めているのか?」と逆に問われるのだ。
「中途半端で、なまぬるいものではだめだ!」と言われているのだ。
手持ちのたきぎはかぎられている。あちらこちらに分散させないで、一ヶ所に集めて火をおこさなければならない。さもなければ、鍋のなかの水はいつまでたってもぬるま湯のままだ。水は百度にならないかぎり蒸気に変容しない。
弟子にとって、その瞬間は息をするということがすべてだった。
ふるさとや両親の面影など皆無だ。神と出会う、という考えすら消滅している。息をするという欲求が唯一すべてであった。
真理に達する最後の門はきわめて狭いものだ、と言われる。
最愛の人でさえも連れていくことはできないのだ、と師は教える。
最後の門は<あなた>が独りで通り抜けなければならない。
神と出会いたいというのは弟子の「望み」である。そして、あなたには、その他にもいろいろ小さな望みがある。
その望みはもっとはっきりとした「欲望」にならなければならない。
そして、最後に、細胞の核をゆさぶるほど強烈な「渇望」にならなければならない。
あなたは、ほかのすべての欲望を焼きつくす唯一無二の渇望を、自分自身のなかに見つけださなければならない。
それが火となってすべての不純物を焼きつくしたあとに、純粋な金があらわれる。
それが<あなた>だ。
* 5/26(日) 14:30〜17:30
ブレス&瞑想の味わい in 東京・五反田
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