もしまたしが本をだすとしたら、

こんなかんじで



  タイトル{ありがとうございます、そしてゴメンなさい、、}


   冴咲賢一


はじめに


この本を手に取って下さったあなたへ初めまして!


これから私がお話ししたい事は《よくあること》かも知れません。


私は《音楽家》として生活している者です。



ご存知の方もいらっしゃると思いますがこの本で《私が言いたい事》、、それは

《私の音楽》の中でお伝えしたい

《喜怒哀楽》や《四季》などを見で感じた事。



《恋愛》などを交えたお話です。

演奏活動始めて30周年を一つの節目として書きました。


少しでも感じて頂けましたら幸いです。





1


未熟児


私は生まれた時は小さくて、保育器にはいってました



看護師の母でした。


母曰く、私は大きな音が怖くて、母が掃除機をはじめても泣いてたみたいでした、


皆様に「可愛い」と言われて育ちました。



米隣の女の子



佐世保のじっかの隣に同年代の女の子がいてよく遊んでました。


その頃から女の子と遊ぶのが大好きでした。


夕方まで話ててその子のお母様から「いつまでしゃべっとるね、ごはんばい」と言われてました。


同時に母から「男のお喋りはモテんよね」と言われてました。



まだまだ、音楽には興味もありませんでした。



共稼ぎ



両親とも仕事でしてましたから「かぎっ子」でした。



4歳下の弟がいまして、2人でお留守番してました。



母親が勤務していた病院から近くの保育園でした。


母のお仕えが遅くてないてたらしいです。


いよいよ小学校に入ります。



しんじられませんが、ものすごい「人見知り」でした。


一度なれるとすぬ心友みたいな勘違いもしてたかめしれません。


友達は沢山できました、




游ぐ、走る



球技は昔から嫌いてました。


まわりが野球やったりしてましたが今でも興味がありません。



当時はサッカーなどもテレビでやってなかっので生まれ変わったらやりたいと思います。




これといった趣味のない少年でした。


  YMOブーム



そして私は中学生になりました、


学校で【YMO】が流行ってて、カセットテープの交換をしてました。

坂本龍一に憧れて、私の【音楽人生】こキッカケの始まりです。


  シンセの教室ごなかった


佐世保には

キーボード、シンセを習える音楽教室かーなく、私の出身楽器店にたすわねると、エレクトーンをすすめられましたな、



  エレクトーンはジャスコのおばさま



当時はジャスコという、AEONけいのお店があり一階の広場で白いエレクトーンを厚化粧とデパートの化粧品売り場の匂いかわすごい方が凄い音で演奏されてて、気持ち悪くなったトラウマがありたさした。


難色を示すと楽器店の方がエレクトーンコンサートがあるからみ「おいでよといわれました。



母と行きました。

市民会館だした。

こんな大きな会場で幕が上がると、おばさまでなく、男性!


そして【メチャカッコいい音】


私は帰って母にエレクトーンを習いたいとお願いいましたが、まさか詳細に音楽の道に進むなんて想像して中妻だと思います。

松田昌さまでした。



  物足りなくて福岡へ



そんなわけで私は


中学生からYAMAHAへ通いました。


九州は福岡が一番大きいのでそこに東京からプロがレッスンしてくれると情報を見つけ、オーディションを受けました。