昭和53年1月。

宮城県石巻市で上野家の三女としてこの世に生を受けました。

この年の6月12日、宮城県沖地震がありましたが私はまだ赤ちゃんで

記憶には残っていません。

 

私の実家は流留字家の前(ながるあざいえのまえ)という地名で

変な住所と思っていましたが

この地域は昔は塩田で、庄屋の家の前だったことから家の前という地名に

なったらしいと小学生になってから知りました。

 

家の近くには万石浦湾が広がっていて、海はすぐそばにありましたが、

海水浴をするような場所ではなく、ちゃぷちゃぷと小舟が静かに揺れている

地元の人の船が駐船されているような場所でした。

整備もされていなくて、ただ汚い海。みたいな印象でした。

ホタテの貝殻に牡蠣の養殖をしている水産加工所?みたいな建物もあって

日中はカチャカチャ貝殻の音が聞こえていました。

 

実家近くの海にはほとんど足を向けることはなく

ひいおばあちゃんちは海水浴場の目の前にあり

ひいおばあちゃんちから海へ行き、水着のままひいおばあちゃんちで

シャワーを浴びるという過ごし方を低学年くらいまでしていたので

海といえばそちらの印象が強いです。

 

母方の祖母は魚の行商をしていていつも魚を分けてくれてたので

食卓は魚が本当に多く、今思えばとても贅沢だったけど

子どもの頃はハンバーグが食べたいと思っていました。

 

私が生まれた当時、父は肝硬変で入院しており、母は産後ほどなくして

父の看病をするために病院に寝泊まり生活になりました。

このあたりは私の記憶ではなく、祖母(同居していた父方の祖母)から

聞いたことなので、事実とあっているかどうかはわかりません。

不思議と母にこのことを確認したこともなくて、未だに私は祖母から

聞いた記憶のみです。

父は酔っぱらうと肝硬変の手術で麻酔が効かなかったことを

武勇伝ばりに話していましたが、子どもの頃の私には大酒飲みで

麻酔が効かないほどの身体って???と理解に苦しんだ気がしています。

 

父母不在の中、私は祖母が育ててくれました。

2ずつ違いの姉もいて、私が生まれた頃は長女が4歳、次女が2歳。

そして私はゆりかごの中。

いや、これ結構大変だったと思います。

でも姉2人にも当時のこと聞いたことないし、姉たちからも何も話したりもないなぁ。

書いていて、いつか姉たちの記憶も聞いてみようと思いました。

 

祖母は私が暖房を消すと唇が紫色になりカタカタと震えだすので暖房を

24時間つけっぱなしだったと話してくれました。

そして、みんな母乳だったけど早苗だけはミルクだったと。

これがずーっと私の心の中にあって、子ども時代はあんまり気にしていなかった

けど、心の中にはずーっといて。

私だけ身体が弱いからそれはミルクで育ったからだと祖母が折に触れて

言っていて。

中学生で貧血になった時にもミルクで育ったからかもと言われたり。

実は結構ショックだったというのがわかったのが私が長女を出産した時。

 

母乳育児神話みたいな、出産した病院が母乳推しだったこともあり

私だけ母乳じゃないんだということがどんどんと私の心の穴を大きくして

いったような気がしています。

 

恐る恐るミルク話は母に聞いてみたら

4か月までは母乳を出していたと。

ただその後父の看病が大変になり母乳じゃなくなったと言っていて

 

なんだ、まったく母乳を飲まなかったわけじゃなかったんだと

ホッとしたけど

それでも赤ちゃん時代、母との時間は圧倒的に少なかったからなのか

やっぱり私は常にどこか心がぽっかり穴があいていた感覚があったのでした。