本稿「三好長慶、義継と畿内の甲冑軍装考察」は、昨年の文学フリマ大阪でDe bushalteの加賀野さんが発行された同人誌「戦国三好氏アンソロジー むらさめ晴れて みよしのに翔ぶ」へ寄稿した原稿です。

執筆にあたりお声がけいただいた……と言うと聞こえはいいのですが、実際には加賀野さんが広く執筆者を募集されていたところへ、私が勝手に手を挙げて飛び込んだというのが正しいところです。それでも快く受け入れてくださった加賀野さんには、心より御礼申し上げます。

 

当企画で戦国史や甲冑を愛する多くの方々と同じ一冊に参加できたことは、私にとって大変貴重な機会となりました。

掲載誌は当日の頒布およびその後の通販分も完売し、再版の予定はないとのことです。今回、加賀野さんご本人のご厚意により許可をいただきましたので、ここに原稿を再録いたします。

本稿では、三好長慶・義継父子が活動した時代を中心に、畿内における甲冑と軍装の変化を考察しました。戦闘様式の変化だけでなく、当時の経済状況や身分意識の変容にも目を向け、拙著や過去のブログ記事で制作した軍装図を交えながら図説としてまとめています。

 

私自身、ブログ記事をもとに冊子を制作することが多いため、本稿もその流れの一環として公開するものです。

当時お読みいただけなかった方々にも、何かの参考となれば幸いです。

 

なお、本稿は文学フリマで頒布された掲載版をもとにしていますが、その後に判明した誤記や補足事項については、過去に別記事として公開しております。特に堺と南蛮貿易に関する記述については訂正を行っていますので、あわせてご参照ください。

 

 

掲載誌では誌面の都合上、図版はモノクロでの収録でしたが、本記事では制作時の本来の状態に近い形でカラー図版を掲載しています。軍装や甲冑の色彩表現についても、あわせてご覧いただければ幸いです。

記事は当時の私の理解に基づいて執筆したものであり、現在では見解を改めた部分もあります。

それでは、当時の原稿に修正と補足を加えた本文をご覧ください。

 

三好長慶、義継と畿内の甲冑軍装考察

ここでは、戦国時代における甲冑の変遷と特徴を大まかにたどりつつ、現存する甲冑や当時の文献・絵図などの資料を手がかりに、三好長慶と周辺勢力を含めた西国の武士たちに共通する軍装の特色について考えてみたい。本章の内容は、限られた資料と私見に基づくものであり、検討が行き届いていない部分もあるかと思うが、戦国期における実戦的な甲冑の姿や、西国武士の装いを理解する一助となれば幸いである。

 

三好氏は、室町幕府の管領であった細川京兆家の家督争いの中から台頭してきた武家である。長慶の代になると次第に京兆家を凌ぐ勢力を持ち、将軍足利義輝とも対立と和睦を繰り返しながら、京都を中心とする畿内五ヶ国のみならず、近畿北部や中部の一部にまで影響力を及ぼすようになった。出身地である四国には弟を配置し、勢力の拡大を図っている。

将軍義輝との和睦後には、相伴衆への就任や桐紋の拝領により、三好家の家格は大きく上昇した。長慶には後継者として実子の義興が居たが長慶より先に亡くなった。義継は、長慶の弟、十河一存の子で義興の死を受けてその後継者となった。

長慶の死後、義継は将軍義輝を殺害する「永禄の変」を起こす。これにより、周辺の大名からの反発が強まり、三好家中でも対立が表面化する。かねてより続いていた将軍家および管領家の家督争いも重なり、事態は大きな紛争へと発展していく。そして最終的に、足利義昭を擁した織田信長の上洛を招く結果となった。

義継は当初、義昭を将軍とする幕府を構成する大名の一人としてその中に名を連ねたが、やがて信長と義昭の間に亀裂が生じると、幕府と距離を取りつつ三好家中の再掌握を図る。しかし、信長が対立勢力を短期間で次々と滅ぼしていく急展開に対応できず、滅亡を迎えることとなった。

 

長慶・義継の二代が活動した時期は、一六世紀後半の戦国時代であり、時代区分としては室町時代末期から安土桃山時代初期にあたる。

この時期、戦国大名たちは一国の枠を越えて複数国にまたがる支配を確立しつつあり、各地で勢力が収斂する傾向が強まっていた。抗争は大規模化・長期化し、それに伴って動員兵力も増大する。

 

合戦では、「槍働き」「一番槍」といった言葉が示す通り、槍の使用が主力となっていく。また、長巻や長刀といった、刀身および柄の長い武器も各地の伝来品や絵画資料からその使用が確認できる。

激しさを増す接近戦は、甲冑に対しても隙間を減らし、身体全体を隈なく覆うことが求められるようになった。これにより小具足の充実が進み、胴体部も堅牢性を保ちつつ、長時間の着用を可能にするため、徒立の軽快性に配慮した設計へと変化していく。具体的には、立挙や長側の足掻き(屈伸)を廃した立胴形式が登場した。

小札は次第に寸法が縮小され、この頃には札幅1センチ前後まで小型化が進み「鱛歯小札」と呼ばれるまでになり、これを産地から「奈良小札」とも呼んだ。一方で地方では、逆に札幅を広げた「伊予札」が考案されている。

威糸については、威す箇所を減らす「巣掛威」が広まり、生産性の向上を図った。また小型化した奈良小札では、素材である牛革の廃棄部分を減らすことで材料を有効活用でき、あわせて軽量化の面でも利点があった。

 

小札、伊代札も革製から鉄製への配分が進みさらに一枚板となった板札で拵えた金腹巻、金胴丸も登場する。新たに戦場に導入され始めた鉄砲や槍という刺突、貫通武器への対策が求められていた。

戦い方そのものが大きく変わりゆく中、さまざまな試行錯誤が試されこの様な改良がやがて甲冑沿革史上の最終発達段階である当世具足の形成に繋がっていく。

 

戦乱が全国規模で長く続いていた為、各地の戦国大名たちは地域内での甲冑生産拠点の育成を図り甲冑師の招聘を行いそれらにより地域的な特徴も見られる様になるが、領国周辺内の供給を大きく超える生産量では無かった。当時国内で最大の甲冑生産拠点とその市場は奈良南都にあった。奈良は長い伝統と高度な技術を誇り全国の甲冑需要に応えるのに充分な量産体制を備え、各地の戦国大名はじめ有力な武家は、自身の甲冑や地元の神社に奉納する甲冑をここで調達した。また奈良で生産された甲冑は腹巻屋と呼ばれる行商により全国を巡り販売供給された。

 

室町末期より主に兜鉢などに姓名や居住地を刻む刻銘が見られる様になる。前述の様に需要の拡大と戦闘様式の変化から鉄の採用の増大によって、甲冑師集団の中でも鍛鉄を扱う鍛治職人の地位向上が促され甲冑鍛冶が刻銘を始めたと考えられる。これにより流派による特長やその分布先などが分かるようになった。この在銘によっても奈良で生産された甲冑が当時、各国に広く分布していた事が分かる。

当該期は胴に兜と袖を揃えた同作皆具の胴丸や腹巻が主に用いられた。威色目は藍で深く染めた濃紺色の黒糸威、黒韋威を基本に上段の二段、やがて三段を白糸や赤糸などで威した「肩白、肩取」或いは中間を別色とした「中取 腰取」と称する落ち着いた配色から次第に色数を三色や四色とする「色々威」「段威」「片身変り」など多彩な色目へと増加していく。これは抗争の大規模化が進むに連れ集団の中で目立つ必要と、戦乱が続き死が身近な不穏な世相を背景に、自己顕示欲の表れといえる刺激的な色目が好まれたのだった。

胴丸・腹巻ともに、時代が下るにつれて立挙や長側の段数、草摺の間数に増加が見られる。腕の付け根や脇の防御にも対策が施され、脇板は湾曲した形状になったり、より大きく、あるいは分割されるようになっていく。これらの工夫は、装甲の隙間を減らす意図に加え、草摺は足捌きに配慮した構造とも考えられる。この為に室町最末期には背中を覆い脇で引き合わせる胴丸が背中で引き合わせる腹巻より主流となり、これが当世具足の構造に引き継がれたと考えられている。

 

東国では、騎馬武者の戦闘を重視したため、胴体部をはじめ草摺や佩楯に至るまで鉄を多用した重量感のある甲冑が主流となった。一方で、三好氏が活動した畿内・西国では、ルイス・フロイスの言う「戦わなければならない時には馬から降りる」徒士戦の傾向があったこともあり、草摺や佩楯に練革を用いた軽量な甲冑が多く用いられた。これらは歩行での戦闘を意識した構造といえる。

兜は室町時代を通じて、筋兜が流行した。中期頃からは、前後に長い楕円形で、中央の丁辺部がくぼみ、前後の丁部がふくらんだ「阿古陀形」と称される兜鉢の形状が広まり、特に上級武士層の間では、装飾を施した総覆輪で間数の多いものが好まれた。

時代が下ると、頭の形に沿った丸い「頭形」、頂点が円錐状に尖った「突盔形」、さらに名の通り桃の形に似た「桃形」などの兜鉢も、この畿内・西国地方では好まれた。

 

頭部への衝撃を緩和するため、兜鉢の内側には頭との間に空間を設ける「浮張」と呼ばれる韋を張る工夫が、この頃から行われるようになった。

錣は水平方向に広がる笠錣が多く用いられた。笠錣は、遠方から放たれた矢が弧を描いて頭上から降りかかる攻撃に対し、首から肩を守る役割を果たす。また、自らの打物武器を振るう際、上腕部の動作を妨げないという利点もあった。

一方で、正面や側面からの近接攻撃に対しては防御が不十分であり、その弱点を補うために、鎖や小板を垂らした下散錣を設けたり、半頬を併用することもあった。

時代が下るにつれて笠錣の段数が減っていく傾向が見られるのは、前述の理由に加え、重量軽減の必要性があったためと考えられる。

兜の正面に立てた装飾物である立物にも南北朝時代以降に定則的に行われた三鍬形から代わって角本と呼ぶフック状の装置である足金具を取り付け、此処に日や月、神号など様々にデザインされた立物を差し込む様になった。これも自己顕示欲や合戦が頻発する時代特有の死生観を表すものと考えられる。

 

当時、身に纏う衣装、服飾には身分証としてその人物の地位を表す意味が含まれ、その為に幕府には服装規定が定められていた。写真やインターネットも無いこの時代にはその人物の顔を見知っている者は限られており、その身なりは人物を特定する役割も含んだ。余談にはなるが日本人が身なりで判断する事を承知していた為、宣教師たちは将軍義輝に拝謁する際には殊更立派な法衣を纏って飾りたて、多くのキリシタンを伴い輿に乗って伺候している。

三好家の祖之長はその主君、細川澄元が京兆家の家督を承認されて上洛の折、「美麗驚目の甲冑」に身を包んだとあり、恐らく身分不相応に高級な甲冑を纏っていたと思われる。

先ほどの幕府儀礼出仕の服装規定であるがその正装は烏帽子直垂であった。しかし肩衣袴に露丁姿で出仕する幕臣が問題視されていた記録が残っている。京兆家当主の細川政元もその一人だった事から服装規範の軽視という風潮は当時、身分の上下を問わずかなり進んでいた様子が窺える。

 

之長は実力行使である戦時の甲冑軍装で意図的に美麗驚目の甲冑を纏う事で、主君澄元を阿波細川家から京兆家当主に押し上げた軍事的な実力者として自らをアピールしたのだろう。その甲冑は主君澄元の甲冑にも引けを取らぬ同様な手の込んだ高級な作りで、それゆえに京の人々が驚目したのだと思われる。

 

細川京兆家の家督争いが三好家の台頭、家格上昇を招いた様に応仁の乱の原因となった畠山氏でも、木沢長政や遊佐長教、安見宗房達が実力で台頭していた。上級階層の服装規範の軽視と彼らの台頭も全く無縁とは言えまい。上位階層の規範軽視は、「形式」に基づく身分の可視性を弱体化させ、上下関係の相対化・軽視の心理的土壌を広げたと見てよい。能力や実力が身分を凌駕する下剋上思想の形成に少なからず影響を与えた一面はあるだろう。

 

当時代は技術革新による農業生産の増大と商工業発展、そして流通の拡大の時代であった。国内最大の都市としてその首都を有した畿内には工業生産、流通、消費の拠点としての京や奈良と並んで海域港湾都市としての堺が存在し、全国のみならず海外からも多くの富を集め、特産品や珍品文物が流入する文化の中心地でもあった。大航海時代に突入したヨーロッパによる南米や東洋進出により、交易が世界を繋げ地球規模に活発に広がり始めていた。交易の増大に伴い決済共通貨幣としての銀の需要が高まっていたタイミングで、石見銀山を主とした国内鉱山の発見開発はこれを後押しした。経済拡大による富の増大は文化の発展をさらに促した。堺にはポルトガル船が来航し遣明船貿易にも関わっていた商人、日比屋了荷、了珪父子がキリシタンに改宗した。遣明船が天文十六(1547)年に途絶した中でこれに代わる交易を視野に受洗したのだろう。

これらの商業活動を担って莫大な財力を付けた商人たちが新たに文化の発信者として活動する。この時代に流行した茶の湯は寄合と呼ぶ接待の場として、武野紹鴎や津田宗達の様な豪商たちが先導し様式を整えていった。後には千利休によって侘茶として確立するが、当初は名物と称された高級な舶来品を披露する文化的サロンとして発展した。有力な武家は彼らと会合を持ち、交渉の場として政治的にも重要な役割を帯びていく。

この様な経済的、先進的文化の恩恵を受けた畿内西国では、非常に目の肥えた武士達によって甲冑にも華美な気風が支配的で金 銀の箔押や、色々威など威糸を多色使用してかつ毛引に威した派手で目立つ装いが好まれた。

 

天文十八(1549)年にフランシスコザビエルが来日し、日本での本格的な布教を目指すイエズス会は、日本で効果的に信者を増やすには統治者層の支持が重要だと認識しており、永禄七(1564)年、三好長慶を飯盛に訪ねた。長慶が家臣たちのイエズス会による聴聞を許可した結果、三箇頼照や三木半大夫、結城弥平次などが洗礼を受けてキリシタンとなった。受洗した三好家中の武士たちはやがて長慶亡き後の紛争で敵味方に分かれ争ったが、彼らはその旗やあるいは兜の前立に十字架やキリストの名を記したものを掲げていた。フロイス日本史には「三木半大夫は鎧の上に着ていた虎皮の衣を脱ぎ」という一文があり、後に流行する陣羽織の最初期例ではないか。キリシタンとなった武士はヨーロッパの文化や甲冑などについても宣教師たちから深く話を聞いていたと思われ、またそれらを採用する事で自らがキリシタンである事をアピールし信仰心を競い合う一面があった。陣羽織も鎧の上に派手なサーコートなどを纏った騎士の話を聞いてアイデアを得たのかも知れない。

後に織田信長と足利義昭の間を取りもち摂津守護代となる和田惟政は、宣教師を信長に紹介し保護した人物で、宣教師から贈られた帽子を被せた兜は「和田頭」と呼ばれて、惟政のトレードマークとして知られた。松永久秀の甥の内藤ジョアンは十字架の旗を掲げ前立には大きく金文字でイエズスと記した兜を用いた。同じく高山右近や池田教正はその着用の兜を信長の馬揃えに参加した際、信長より絶賛されている。後の当世具足の時代にバリエーション豊かに登場する変わり兜は、彼ら畿内のキリシタン武士たちが端緒だったと思われる。

 

この長慶亡き後の三好家中の紛争の結果、義昭を擁して上洛し将軍家に天下を取り戻す功績を上げた信長は、上洛直前に周囲の大名に協力を仰いでいた。その際に上杉謙信への贈り物として伝えられた甲冑と推定される胴丸がある。この胴丸は当時の最新の特徴が見られる形状となっていて、総金箔押の本小札に四色の色々威、胸板や脇板などの韋所には鮫皮に黒漆を塗り研いだ「研出鮫」、後立挙は四段に、草摺も十一間に細分化などが目を引く、畿内での最先端の流行を窺える一領といえる。

 

長慶が活動した同時代の人物で湊喜兵衛尉という紀州の国衆の重臣であった武士の天文二十四(1555)年の姿という肖像画には、三鍬形総覆輪阿古陀形筋兜を被り、大袖を具備した本小札毛引威の胴丸、あるいは腹巻を纏った姿が描かれている。威糸は上二段は白糸に以下を黒韋もしくは紺糸威で、喉輪に金箔押の諸籠手、佩楯に大立挙臑当と当時の武装の様子がどの様なものか知れる恰好の資料である。

 

最後に以上を踏まえ想像で描いた武者の軍装姿を紹介して終わりとしたい。

三好長慶のイラストは天文末期頃より永禄初期の長慶の躍進する時期を描いており、宝幢佩楯の着用や制作時期の異なる喉輪などと共に大きく変革してゆく胴丸がまだ古風な名残を残している、過度的な表現としている。細かく見ると例えば未だ細分化されていない草摺や金物、藻獅子といった絵韋や威色目でこれらを表している。

織田信長のイラストは義昭の上洛直前、信長より上杉氏に贈られた前述の胴丸と袖を軸に、兜とそれに付随する喉輪や籠手、脛当等を想像し描いたものである。威色目や草摺の細分化、金物等に室町最末期の特徴が見られる。伝来品そのものを着用せずとも、概ね似た甲冑を着用していただろう。

次は元亀年間頃の三好義継の姿を想像したもので、信長同様にこの時期の主流だった胴丸の改良が進む様子を描いたものになる。兜の錣の段数や壺袖と呼ぶ小型の袖の着用、草摺の細分化などにその変化を表す。金具廻の革所や威色目の多色化、金箔押しの多用なども同様で、人目を引く装いが多く用いられる傾向を表現した。金物や馬具に桐紋を用い家格上昇を視覚化している。

最後に和田惟政の姿。惟政は色々威腹巻で、これも一段ごとに色目を替えた段威という配色で、草摺の細分化も同様である。脇板の形状に改良が見られる。モノクロなので分かりづらいが、義継の胴丸と敢えて同じ威し色目とする事で地域的、或いは年代的な流行色が有ったのではと個人的な想像を盛り込んだ。文献には贈られた緋のビロード帽を被った惟政が白井河原の合戦に望む姿が記録されており、戦国後期に登場する変わり兜の黎明期を担った人物として描いた。

 

甲冑は直垂と同様に身分標識でもあり、それを纏う上位身分の侍は、上質で高価な品を着用していたと考えられる。折よく長慶に続く新たな階層の勃興と時を同じくして、国内の急速な経済発展や西洋との交流が進み、その恩恵を受けた近畿・西国の人々の意識にも大きな影響を与えた。これが、多色の威毛や金箔の多用といった華やかな甲冑や、新式の兜の登場を促した要因と考えられる。長慶・義継に引き立てられた家中の侍たち、そして彼らと争いながら台頭した侍たちは、身分の上昇とともに競って装いを飾り立て、その流れは信長、そして秀吉らに継承されて大成していく。