ー 1/22 上江洲義秀さんの光話より ー

 

 

この結果という仮想の世界

この結果という無常の世界

 

何かひとつに皆さんがしがみついている限り

解脱ではないんです

 

自縛と言うんです

 

解脱とは、この結果というすべてから解放されていること

 

私もあなた方のように肉体をまとっています

家族もいます

この現象という結果の世界を生きています

 

しかし、香港のセミナーでもはっきり言い切りました

 

我肉体にあらず

 

肉体という衣装をまとっていながら

肉体の影響を私は受けません

 

昨日も私は香港から帰ってきて

仕事も山積みですから

急いで何をしようとしたのか、つまづいて

私の足は本当は前を向いているべきなのが

折れたのか外れたのか、全く逆を向かってるんですよ

 

歩こうにも、おかしい歩き方をする

自分で「あれ?おかしい」と思ったんです

 

それでも私は肉体そのものにそう意識はないものですから

 

常に常に完全意識というものを

常に常に本質に留めているから

今まであばら骨が折れても、腕が折れても

いつも癒されるときは「パチン」と

音を立てて、完璧に立て直されるんです

 

こんなにも見事に折れてる足も、歪んでる足も、

見事に癒されるかと思うほど

見事に癒されていくんです

 

本来この世のすべてを癒す力は

皆さんの知の中にある

 

だが皆さんは、病院に頼りすぎる

薬や物質に頼りすぎる

 

それで内なる本質

つまり、神が働く間がない

 

何かにつけて

病めば傷つけば、あるいは怪我すれば

すぐ医者だ、すぐ病院だ、すぐ薬だ、と頼ります

 

少々の痛み、少々の怪我や病、耐えてみてください

 

内なる神は完璧に癒そうと働くでしょう

立て直そうと働くでしょう

 

しかし皆さんが

いつも実相という世界からこの世界を眺め

皆さんを見ていると

内なる神はすべてにおいて平等なんです

 

私だけにその力があるのではないんです

私だけがそうではないんです

 

私は内なる神が働ける

その方法を知っているだけなんです

 

上から皆さんを眺めたときに

こういう現象が起こっています

 

これは香港で瞑想したときも実感しました

 

内なる神は皆さんのハートの扉を叩いて

こう言うんです

 

愛されてもない私が

求められてもない私が

必要ともされていない私が

 

どうしてあなた方の自由意思を侵して

勝手にあなた方を癒したり

導いたりすることができるのか

 

だからそこに常に時間があるごとに

電車に乗っていてもいい

飛行機に乗っていてもいい

バスで乗り物で移動しているときでもいい

 

意識は皆さんは宙ではないでしょうか

 

常に意識は、神よ、神よ、我が内なる神よ

 

意識が常に神に向きさえすれば

神は皆さんのこの表現体を通して現れ示すことができるんです

 

肉体が生きているという錯覚は迷いです

肉体が生きているという錯覚は偽我です

 

偽我とは偽りの我、偽物の我と書くんです

 

本物のあなたがたは

命としてすべての原因、本質なんです

 

肉体は命を表現するための、

皆さんの肉の目で見える道具

 

心、感情、五感、理性というのは

命の使う、皆さんの肉の目で見えない道具にしか過ぎないんです

 

本来は

我肉体にあらず

我心にあらず

我感情、五感、理性にあらず

 

我命なり

我真理なり

 

それをはっきりあなた方が自覚

 

自覚とは、自らに目覚めると書いて自覚と言います

 

自覚、自らが目覚めると書くんです

 

自らが命であることに目覚める

自らが本質、原因であることに目覚める

 

これを自覚、これすなわち悟りと言います

 

私はよく意識の中で、皆さんが聖人と言われた、

悟りを得た方々とよく意識の中で相対します

 

今まで小さい時から導かれたその聖人の方々が

我肉体なりの錯覚で生きている悟り人、聖人なんて一人もいないんです

 

どの聖人も、我本質にして無限という境地で生きているんです

 

皆さんが、我いと小さき者、弱き者、無能無力と生きているのを、自縛と言うんです

 

 

 

(続く)