今帰仁城  | ~日常ブログ~

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10月17日に行って来た「今帰仁城」の散策の様子です。

 

別エントリーでもお話しましたが、この日は朝から大雨・・・。

雨の天気でしたが、今帰仁城へ行ってみる事にしました。

 

今帰仁城の入口に向かう途中に、地形を表す模型が展示されています。

 

 

 

こちらも入口に向かう道の脇に展示されているのですが、前日行った中城城跡や今帰仁城で使われている石が紹介されています。

 

 

 

入口前に、世界遺産についての説明書きもありました。

 

今帰仁城の案内板。こちらも広大なグスク跡になっているようです。

 

 

『今帰仁城』

 今帰仁城(別名北山城)は、琉球が中山に統一される前の「三山鼎立時代」には山北(北山)王の居城とし、また中山が三山を統一後には琉球王府から派遣された監守という役人の居城だったそうです。

外郭を含めると7つの郭からなり、その面積は首里城とほぼ同規模で、城を囲む石垣は地形を巧みに利用し曲線を描き、城壁のディテールは美しく、沖縄屈指の名城との事。

 今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされているそうです。
堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城だったとの事です。

 14世紀の中国の史書に琉球国山北王「怕尼芝(はにじ) 」「 珉(みん) 」「 攀安知 (はんあんち) 」の三王が登場します。

この頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山鼎立の時代」だったそうです。

北山王は今帰仁城を拠点に沖縄島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていたのだそうです。
しかし攀安知(はんあんち)時代、1416年(14221年説もある)に中山軍(ちゅうざんぐん)の尚巴志によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになったそうです。

 北山の敗北後、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁グスクに設置し、1422年以後監守の居城としてグスクを利用したとの事。
しかし1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上してしまったそうです。

1655年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残され、、精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れているそうです。

 2000年12月に開催された第24回世界遺産委員会で、座喜味城跡(ざきみじょうあと)、勝連城跡(かつれんじょうあと)、中城城跡(なかぐすくじょうあと)、首里城跡(しゅりじょうあと)、園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)、玉陵(たまうどぅん)、 識名園(しきなえん)、斎場御嶽(せいふぁうたき)と共に、今帰仁城跡(なきじんじょうあと)の九つの資産が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産リストに登録。

また、平成18年には日本100名城にも選定されました。
これは優れた文化財・史跡であること。著名な歴史の舞台であること。時代・地域の代表であることを証明するものであり、世界遺産リストヘの登録にあたっては、各資産が個別に評価されたのではなく、9資産全体が物語っている琉球の歴史や文化の特質が評価され登録となったそうです。
『琉球王国のグスク及び関連遺産群』という名称で、全体がひとつの文化遺産として登録されていることがそれをよく表しており、九つの資産は琉球全体の代表とされています。

(参照:今帰仁城跡公式HPより)

 

『外郭』

高さは2m前後と比較的低い石垣が延長数百m蛇行して続いています。
発掘調査で屋敷跡が確認されたそうです。

(参照:今帰仁城パンフレットより)

 

 

 

大小様々な石が綺麗に積み重ねられています。

 

『平朗門』

本門で、現在見る門は昭和37年の琉球政府時代に修復されたものだそうです。

(参照:今帰仁城跡パンフレットより)

 

平朗門の裏側。

 

 

平朗門を潜ると、長い階段と石畳が見えてきます。

両脇に植えられている木はカンヒザクラの木だそうです。今帰仁城跡は桜の名所として知られ、毎年1月~2月には桜祭りがおこなわれているそうです。昭和40年代に今泊区民によって植樹されたそうです。
(参照:今帰仁城跡パンフレットより)

 

 

『大庭(ウーミャ)』

大庭を取り囲むように正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が配置されていたと考えられ、行事等に利用された重要な広場だそうです。

(参照:今帰仁城跡パンフレットより)

 

拓けた場所にあった石碑。

 

 

『ソイツギ(城内下之御嶽)』

今帰仁城跡には御嶽のイベ(最も聖なる場所)が2つあるそうで、大庭の北西にあるこのソイツギは、旧暦8月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノ口が五穀豊穣等を祈願するそうです。

写真はないのですが、御内原(ウーチバル)にあるテンチジアマチジ(城内上之御嶽)や神ハサギ跡と共に祭祀場として拝まれているそうです。

尚、御内原は今帰仁城跡に仕えた女官の生活の場所と伝えられているそうです。

(参照:御由緒書き、今帰仁城パンフレットより)

 

大庭から次の場所に行くに、少し階段を上がっていったのですが、途中で見えたのが・・・。

 

『大隅(ウーシミ)』

戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられているそうです。

最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭との事です。

(参照:今帰仁城跡パンフレットより)

 

 

今帰仁城跡の土台を支える土の構造を示した案内図。

 

『主郭(俗称本丸)』

城内で最も中心的な建物があった場所だそうです。

(参照:今帰仁城跡パンフレットより)

 

 

 
発掘調査の結果が案内されています。

発掘調査よって築城から廃城までの時期返遷を確認する事ができたそうです。

(参照:今帰仁城跡パンフレットより)

 

 

大庭の脇にあった祠?と石碑。

(御由緒書きを撮るのを忘れました・・・。)

 

主郭から下りていく階段がありました。

その先にあったのは・・・。

 

 

 

『志慶真門郭(シゲマジョウカク)』

ここには城主に仕えた身近な人々が住んでいたと考えられているそうです。

発掘調査により、4つの建物があったと分かっているそうです。

(参照:今帰仁城跡パンフレットより)

 

こちらは何かの土台跡でしょうか?

案内板が見当たらなかったので、ちょっと分からないのですが・・・。

 

散策が終わり、帰り道。

大庭の脇の方でたまたま見つけた急な石段があり、そこを通って戻ってきました。

 

 

『旧道』

たまたま見つけた石段は旧道でした。

平朗門から入って行くと右手(大庭からは左手)にあり、曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、防護機能上から幅は狭急なのぼり道となっているそうです。(参照:今帰仁城跡パンフレットより)

雨が降った後だったので滑り易かったのもありちょっと怖かったのですが、下りるのに苦労しました。

 

平朗門を出て、今帰仁城跡の外郭を近くで拝見。

本当に綺麗に石が積まれています。

 

 

 

正面から見た外郭。

正面から見ても圧巻です。

 

前日散策した中城城跡とはまた違ったグスクを見る事が出来ました。