1月3日。
山家神社へ三が日限定の御朱印をいただいた後、戸隠神社へ行って来ました。
『戸隠神社』
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社との事です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしているそうです。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場だったとの事。
神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えたそうです。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきたとの事。
山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めたそうです。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至るとの事です。
(参照:戸隠神社公式HPより)
こちらの神社もいつかは行ってみたいと思っていた神社の一つ。
また五社巡りというのもあります。
雪の心配もありましたが、とりあえず行ってみる事に。
行き方は何ルートがあるようですが、今回は長野市の市街地を抜け・七曲りを通って行きました。
長野市街地は雪はそんなではありませんでしたが、戸隠に向かう程、やはり雪の量が多くなってきました。
一旦、奥宮の近くまで行ってみたのですが、雪が多くで今回は断念。
(奥宮に向かって歩いている観光客もいましたが・・・。因み、杉並木で有名なのは奥院に向かう参道です。)
今回は奥宮の手前に鎮座する「戸隠神社中社」のみを散策する事にしました。
『西参道大鳥居』
ここも雪の量が・・・。
それでも除雪されていて歩くことは出来ました。
『戸隠神社信仰遺跡』
上杉謙信・武田信玄の川中島合戦の際に、戸隠三院の人々は武田方に味方して上杉謙信に追われ、かつて神社の荘園であった小川村の筏ヶ峰(いかだがみね)に移り、ここに宝光院、中院奥院を建て法灯を守りつつ故郷へ戻れる日を待ったそうです。
しかしながら頼みの武田家は滅亡してしまい、関ヶ原合戦の敗北で上杉影勝が米沢へ移されるまで、30年もこの地で過ごしたそうです。
現在、三院跡にはひっそりと小社が祀られているとの事。
戸隠神社中社は、戸隠神社信仰遺跡中院跡とも呼ばれているそうです。
(参照:小川村観光協会公式HPより)
戸隠神社中社境内の案内板。
山門を通り、階段を上ります。日陰は雪が残っており、少し凍っていました。
『手水舎』
とても冷たがったですが、参拝前に清めました。
本来はこの階段を上って行くようですが、雪の為、通行止めに。
迂回をしていきます。
こちらの階段も所々、雪が凍っていて怖かったです。
『戸隠神社中社』
素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作られた神、「天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)」がご祭神となっているとの事です。
学業成就・商売繁盛・開運・厄除・家内安全に御神徳があるそうです。
社殿天井には平成15年に復元された狩野派の天才絵師、河鍋暁斎によって描かれた「龍の天井絵」があるとのです。
(参照:戸隠神社公式HPより)
『御神木』
推定、樹齢700年を超えるそうです。
木の根元は雪で覆われていましたが、雪深い中でも立派に立っていました。
少し離れた所には、推定、樹齢800年を超える三本杉もありました。
こちらは触る事が出来たので、私も触ってきました。
『宣澄社』
室町時代の応仁2年(1468年)に、戸隠山啓顕光寺で、天台宗と真言宗の法論が行われている時に、暗殺された天台宗大先遍の宣澄阿闇梨を祀る為に創建された神社だそうです。
宣澄が死ぬと、真言宗の寺院に大きなたたりがあり、宝永5年(1708年)に怪無山山頂に宣澄の墓碑を建立し、里宮として戸隠神社中社境内に隣接する五斉神社の中の一社として建立したとの事。
例祭で奉納される「宣澄踊り」は、野良着姿に手拭で頬かぶりをした男性が酒を飲みながら唄い踊るもので、修験道との関係も深いとされ、貴重な事から平成17年(2005)に長野市無形重要文化財に指定されているそうです。
(参照;「長野県:歴史・観光・見所」を案内するHPより)
散策中、雪が少し舞っていましたが、強くなることはありませんでした。
(参拝前、近くのお蕎麦屋さんで順番待ちしていた時の方が雪が酷かった・・・。)
雪が無ければ、もっと色んな場所を散策出来たのではないかと思います。
今度は雪のない時期に訪れてみたいです。