箕輪城の散策の後、お昼を済ませながら、次の目的地、金山城へ。
ナビを頼りに、金山の山上(西城)にある、もっとも山頂に近い駐車場に車を停めました。
あとで調べると無料の駐車場が何カ所かあった事を知ったのですが、今回停めた駐車場が一番近かったようです。
駐車場脇には高台が。そこから眺めた太田市の様子です。
こちらも駐車場脇にある金山城の案内板。案内板を見るだけで、広大な土地と感じられます。
暫くは車道を歩きます。両脇の石垣が歴史を物語っています。
駐車場から少し歩くと、金山城跡の入口を示す石碑が。
石碑から舗装されていない山道を進んで行くと階段が見えてきます。この階段を上っていきます。
途中、下堀切が見られます。
その中で、西矢倉台西堀切は、西城から実城までの間にある4つの堀切のうち、一番西城よりにある堀切との事。発掘調査によってこの堀切には石敷きが施され通路として使われていたことがわかったそうです。
堀切 の北側には柱穴もあったことから、敵の侵入を防ぐための柵が造られていたと考えられているそうです。また、堀切が終わる南端部には斜面に沿って柱穴列が並んで確認されたそうで、木製の橋(桟道)が設置されていたと考えられているとの事です。
(参照:金山城パンフレットより)
『西矢倉台下堀切』
西から二番目の堀切との事。比較的小さ な堀切ですが、西側が3.4m、 東側が7.4mの深さがあり、 敵の侵入を阻んでいたそうです。
(参照:金山城パンフレットより)
『大手虎口』
暫く山道を歩くと、舗装された所に出て、更に石で埋め尽くされた「大手虎口」の入口が見えてきます。
大手虎口は、石積みや曲輪、 土塁石垣によって、奥にある実城(現在の新田神社)へ向 かうための通路を厳重に守っていた一大防御拠点であったと考えられているそうです。 両脇は脇曲輪で、その奥に壁のように立ちはだかっているのが土塁石垣だそうです。これらの石垣や土塁は、発掘調査結果をもとに往時の大 手虎口の姿を復元したものとの事。
通路は、正面に見える土塁石垣の手前で「鈎の手」に折れて延びているのですが、敵に大手虎口を簡単に突破させないための工夫であると考えられています。
(参照:金山城パンフレット、「日本100名城へ行こう」より)
大手虎口の通路の階段を上って行くと、視界が開け、広場に出ます。
ここが金山城と示す石碑が建てられています。
また、『金山城跡地形模型』も展示されています。
全体で写真を撮りたかったのですが、フレームに入りきらず・・・。
(他にも休憩場所があったりもします。)
『金山城』
金山城は、天守閣を持つ城 よりも古い時代(1469年)戦国時代に造られた城で、 金山全体の自然地形を利用して造られた「山城」という種類の城との事です。
「山城」では、急峻 な斜面や岩盤を巧みに利用し、 柵を巡らせたり、土を盛って 土塁を築いたり、岩盤を削っ て堀を掘ったり、石を積んで 石垣を造るなどしていたそうです。
金山城は、金山全体の自然 地形を利用しながらさらに手を加え「巨大な要塞」として、 外敵からの侵攻を防いでいたそうです。
現在の金山山頂部、新田神社のある場所は、実城(本丸) と呼ばれ、当時金山城主が た場所であると考えられているとの事。織田信長の時代よりも約100年前に築城された金山城には天守閣はなかったと考えられていますが、天守閣に替わるような重層の建物が建っていたかもしれないとの事です。
~金山城の歴史~
文明元年(1469年) に新田(岩松)家純の命によ り築城されたとの事(『松陰私語』)。その後、岩松氏の重臣であった横瀬氏(後の由良氏) が下剋上により実質上の金山城主となり、全盛を築きあげたそうです。
越後上杉氏、甲斐武田氏、 相模小田原北条氏など有力戦 国大名の抗争の狭間にあった上野(こうずけ)で、金山城主由良氏は、上杉氏や小田原北条氏との従属関係を保ちながら生き残りを図ったそうです。 その間、金山城下は10数回もの攻撃を受けますが、金山城は一度も城の中枢にまで攻め込まれず、その堅固さを誇ったとの事。ところが、天正12年 (1584年)、金山城は小田原北条氏の謀略により直接支配下に入り、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原北条氏討伐により廃城となってしまったそうです。
~金山城の縄張りとその変遷~
金山城は、金山山頂から樹根状に延びる尾根部を中心に縄張りされた、核となる四つの主要部からなる山城との事です。
金山城の主要部を山頂部の実城域とし、北方の北城域、西方の西城域、南方の八王子山 ノ砦域があり、大小の堀切によって分断されているとの事。その広さはほぼ金山全山の約 300haに及ぶそうです。
金山城の縄張りは、当初の城普請が70日余りと記録されていることから、一時期に完成したのではなく、大きく四つの時期に拡張されていった変遷を見ることが出来るとの事。
第一段階・・・金山城の築城は金山山頂を中心とした一部の空間で工事が行われ、実城、二 ノ丸、三ノ丸程度の規模だっ たと考えられているそうです。第一期は、築城時からの初期段階 で、日常の生活空間である館と山城がまだ一体化していな い段階と考えられているとの事です。
第二段階・・・山城と日常空間とが一体化し、本城として拡張されていく時期と考えられています。金山城の内乱とし 明応4年(1495年)に起こった 明応の乱では『松陰私語』の記事に「真城」(実城)と「中 城」の存在が明記されているそうです。この「中城」は、馬場曲輪、馬場下周辺に当てることが出来るのではないかと考えられているそうです。このころの金山城の縄張りは、南方が御台所曲輪、南曲輪とその帯曲輪、 西方が馬場曲輪、馬場下を含めて物見台下堀切まで広がっ たと考えられているとの事です。
第三段階・・・金山城が有力戦国 大名により戦災を頻繁に受 て、修築がしばしば行われた時期で、永禄9年(1566年)か ら天正12年(1584年)の小田原 北条氏に金山城を明け渡すまでと考えられているとの事です。
第四段階・・・小田原北条氏の支配下時代と考えられているとの事です。 金山城では、西城域西端の見附出丸や八王子山ノ砦から尾根伝いに延びる二重土塁と堀切などに小田原北条氏特有の縄張りが顕著に見られるそうです。 これらは、この第四期における普請になるものと考えられているとの事。 以上のように、金山城は改修、縄張りの拡張を重ねて、 今に伝えられる規模の山城になったそうです。
天正18年(1590年)、 小田原北条氏の滅亡により、 廃城に。このとき、 土塁や通路など城の主要な施設は破壊されてしまったとの事。 このことにより、風雨にさらされた金山城跡は、多量の土砂によって埋没 し、樹木が生い茂り、城であっ た頃の威容さが覆い隠されてしまったそうです。
江戸時代の金 山は、「献上松茸」の御林として、当時の役人の厳しい管理下に置かれたそうですが、幸いにも金山城の遺構はさらなる破壊を 逃れ、現在に残されるに至ったと云われているそうです。
その後、金山城跡は、昭和 9年(1934年)に、金山山頂付近の18.3haが国の史跡として指定を受け、憩いの場として親しまれるように。
また、平成4年度(1992年)から発掘調査を開始し、平成7 年(1995年)より、史跡の保護や、歴史学習及び憩いの場として、史跡の積極的な活用を図るために『金山城跡環境整備事業』がスター ト。この事業は、城の遺構を調査し、その調査結果等に基づいて、城の土塁通路などを復元整備するもので、遺構を取り巻く周辺環境も併せて整備をしたとの事。 当時を復元するにあたっては『元禄太田金山図』や『松 蔭私語』『長楽寺永禄日記』な どの絵図や文献も大きな手がかりとなっているそうです。
平成18年(2006年)には公益財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されたとの事です。
現在、発掘調査に基づ く整備により往時の姿を取り戻しつつあるそうです。
(参照:金山城パンフレット、太田市公式HPより)
広場から少し上がってきた所には・・・。
広場から見た市街地。

来た時はスルーしてしまっていたのでありました=3
時間をかけて散策はしたのですが、一か所、立ち入り禁止の場所があり、その場所にも何かあったようですが(「日本100名城へ行こう」の中で掲載されていた写真の場所が、今回、散策した範囲ではなかったので、もしかしたら、立ち入り禁止の先にあったのかもしれないのですが・・・。)、そこも散策してみたかったな・・・。
私にとって県外初めてのお城巡り、楽しかったです。
これを機に他の県も行ってみたいです。