榛名山の東南麓(とうなんろく)に広がる独立丘陵上を中心に位置しているそうです。
城の西側を流れる春名白川(はるなしらかわ)や、白の南側に存在した椿名沼(つばきなぬま)と呼ばれる湿地帯など、自然の地形を巧みに利用した構造になっているとの事です。
城内で標高の最も高い280mほどの霊置山(たまきやま)から御前曲輪(ごぜんぐるわ)、本丸、二の丸、郭馬出(かくうまだし)という尾根上の曲輪を白の中心軸として、線対称状的に多くの曲輪を丘陵上に配しているほか、新曲輪(しんぐるわ)、内宿(うちじゅく)などの平城部(ひらじろぶ)を一部含んだ平山城だそうです。
城域面積約36ヘクタール、その内国指定史跡範囲約19ヘクタールと、群馬県の戦国時代において屈指の規模を城郭との事です。
昭和62年に群馬県の戦国時代を代表する城郭跡として国史跡に指定されたとの事。
高崎市では、平成10年~18年度まで、本丸・二の丸・三の丸・郭馬出など、城中核部を中心に約7000㎡を発掘調査したそうです。
この調査は、箕輪城を史跡公園として活用するための基礎資料収集を目的として行ったとの事です。その結果、最後の井伊直政期を中心に、門跡、石垣、石組の排水溝、土塁、堀、掘立柱建物が見つかったそうです。特に、堀の規模と虎口(出入り口)周囲の残りのよさが特徴であり、そうした特徴をいかした史跡の環境整備・遺構整備に、平成23年度から着手しているとの事です。
なお、箕輪城は平成17年に「日本100名城」に選定されている。
箕輪城の歴史は、西暦1500年前後に長野氏が築城。その後、業尚(なりひさ)・憲業(のりなり)・業政(なりまさ)・業盛(なりもり)の4代にわたって長野氏の本拠にしていたと考えられているそうです。
(近年の研究では、方業(まさなり)→業正(業政)→氏業(業盛)と返還したことが指摘されているそうです。また、業尚や憲業は鷹留城(たかとめじょう)を築城した長野氏の一族ではないかという指摘もなされているそうです。)
長野氏は、武田氏の西上野侵攻に際して、この箕輪城を本拠にして最後まで抵抗したそうですが、永禄9年(1566年)に難攻不落だった箕輪城もついに武田信玄に落とされてしまったそうです。
その後は、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏と、次々と主(あるじ)が代わったそうですが、その度に各大名の有力家臣が城主として配置されたとの事です。特に最後の城主井伊直政は、徳川家康の家臣のなかでは最大石高の12万石で封じられているとの事。その8年後の慶長3年(1598年)、井伊直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城となったそうです。
(参照:箕輪城パンフレットより)
駐車場からちょっと急な坂を登るっていくと・・・。
『南本丸堀』
本丸と二の丸の間にあったとされる堀。
~堀~
本丸を巡る幅30~40m、深さ10mの空堀や、城の中央部を南北に分断する役割がある大堀切りなど、同時代の城としては全国的な規模を誇る堀が城内各所に残っているとの事です。
一部では、部分的な試堀調査を行っているとの事ですが、6m以上埋まっている事がわかり、石垣なども発見されているそうです。
当時の堀は現況のおよそ2倍程度の深さで、一部では石垣などが使われていたそうです。
(参照:箕輪城パンフレットより)
南本丸堀を通り過ぎると、『二の丸』に着きます。
二の丸の南側には、『大堀切』があります。
大堀切を左手にし、遊歩道を進んで行くと、『郭馬出』が広がっています。
郭馬出の先には、『郭馬出西虎口』があります。
『郭馬出西虎口』
大堀切に唯一ある土橋を、二の丸から南に渡ると52m×27mの曲輪があります。
南側に出撃する拠点の役割があり、「郭馬出」と呼ばれているそうです。
平成14年度に発掘調査をし、西側の虎口で幅5.73m、奥行き3.48mの門跡が確認されたとの事です。
礎石の配置から2階建ての櫓門と推測され、関ヶ原の戦い(1600年)以前では、確認されている中で関東地方最大規模の門跡になるそうです。
門の柱を据える礎石は全部で8石あり、屋根から落ちる雨水を受けるための排水用の溝もあり、きわめて良好に残っていたそうです。
本丸西虎祇地と同様に考証され、平成25年6月から復元工事が始まり、平成28年11月には完成したとの事です。
(参照:箕輪城パンフレットより)
郭馬出西虎口の門は開放されているので、門を通る事が出来ます。
郭馬出西虎口から出た先に『木俣』という場所があります。
私が見て来た所は、これでもほんの一部。
まだまだ見る場所は沢山ありましたが、時間の関係もあり、全てを見る事はできませんでした。
とても広大な城跡でした。