鬼押出し園の次に訪れたのは『鎌原観音堂』です。
「鎌原観音堂」の話をする前に、まずは旧鎌原村について。
(鬼押出し園のエントリーでも少し書きましたが改めて。)
天明3年(1783年)8月5日(旧暦7月8日)、浅間山は噴火による溶岩を噴出。それが山麓に流れ出し、土石を巻き込む土石ながれとなり、時速100Km以上のスピードで、火口より12Km離れた鎌原村を襲ったとの事。
鎌原村は、5~6m深さで埋まったり、流されたりして、唯一残ったのが観音堂だけだったそうです。
そこの駆け上がって助かった者は93人。477人は命を奪われてしまったとの事です。
この土石ながれは、吾妻川、利根川に入り、泥流や洪水となって利根川河口の銚子へ。まや、江戸川にも流れ、東京湾まで下ったといわれているそうです。火山灰は関東一円に降り、江戸は昼間でも夜のようになり、明かりをつけなければならない程だったとか。
そのあと、気候が不順となり、天明の飢饉に繋がったといわれているそうです。
また、利根川は泥流で川底があがり、雨が降るとすぐに洪水になり、長年苦しめられ続けているとの事です。
(参照:鎌原観音堂パンフレットより)
『鎌原観音堂』
大同元年(806年)に建立。
鎌原の村人の祈願所である延命寺の一角にあったそうです。
戦国時代、武田、真田にぞくしていた、鎌原城主の出陣戦勝祈願の場でもあったといわれているそうです。
鎌原村は江戸時代、中山道、北国街道脇往復で信州街道(仁礼街道)の宿場として、人や荷役の往来があったとの事。
境内には、荷を運ぶ馬を供養した馬頭観音が多く祀られているそうです。
かやぶきの巻音頭は、正徳3年(1713年)の建物で、御本尊は11面観世音菩薩との事です。
村の西方の高台にあった為、天明3年(1783年)の鎌原村を全て埋めつくした浅間山噴火土石なだれから、唯一残った建物との事。
目の前の石段をかけ登って行き残った93人は、ここ観音堂で命をつなぎ、村を復興されたとの事です。
(参照:鎌原観音堂パンフレットより)
『33回忌供養塔』
境内に入って左手直ぐの所に供養塔が建てられています。
この供養塔は浅間山大噴火から33年後、文化12年に建てられたものだそうです。
鎌原観音堂は「天明3年浅間やけ遺跡」として、群馬県指定遺跡にされているとの事です。

境内は見る所が沢山あります。
観音堂へ通じる石段。
かつては50段あったそうですが、その内、35段が土石により埋まってしまったとの事。
昭和54年、発掘調査が行われ、その際、お二人の被害者が発見されたそうです。
中学生の時だったか、ここだったか、別の場所だったか忘れてしまったのですが、見学に訪れた際、とある母子が観音堂に駆け寄ってきたそうですが、あと数段という所で溶岩の被害を受けてしまったという話が、今でも鮮明に覚えています。

『観音堂』
参拝の際、いつもお堂の前は雰囲気が違うように感じるのですが、ここ鎌原観音堂はまた違った雰囲気を感じました。
観音堂の右手に授与所があります。
そこでは地元の方3名が囲炉裏を囲んでいらっしゃいました。語り部の皆さんと思われます。
私はお話を聞かなかったのですが、地元の皆さんのお話を聞くのも貴重な時間になるかと思われます。
御朱印をいただいている時、おやきとお茶を出してくださり、少しお話はさせていただきました。
『浅間山噴火大和讃』
浅間山噴火大災害を忘れない、記憶の風化を防ぎたいとの思いで創られたそうで、今でも唱えつがれてきているとの事です。
鎌原は月の7日と16日に「まわり念仏」といって、村の各家を時計回りにまわり、この和讃や念仏を唱え供養を欠かさず続けてきたそうです。
春秋の彼岸とお盆には観音堂で唱え、他の月は女性が夜に当番の家に集まり念仏を唱えてきたそうですが、時代と共に、夜から昼間になり、鎌原多目的センターができてからはそこで唱えるようと変化をしてきているそうですが、月2回とその家ごとの当番の持ち回りは、今も変わりはないそうです。
(参照:鎌原観音堂パンフレットより)