今日は6月30日に行って来た御朱印巡りについてお話しようと思います。
(数件ありますがお付き合い下さいm(_ _)m)
6月30日、『科野國鎮護総社 科野大宮社』へ行って来ました。

『参道』
住宅とアパートの間に参道が(°°;;


『狛犬』




参道には紫陽花が咲いていました。
この日はまだまだこれから咲くかなという雰囲気でした。

参道と神社の間に、車道が通っています。
(参道入り口も、大通りが走っています。)

ここは、上田市の常田地区にあります。
「常田」のはじまり、初めて知りました。

『鳥居』



第十代崇神天皇建五百建命を信濃国造に任命して、国府を上田に置き、天神地祇を敬ひ神 地神戸を定めて、国土開発をおこなはしめたそうです。この頃、国魂の神科野大宮社を創祀して、住 民の安全を祈り、官民ともに開発につとめて、国府のある開拓地となったと云われているそうです。
天武天皇13年、遷都の候補地として、この地方を調査の時神部神戸を大宮社に寄進したとの事 。又、天平年中宮祭が執行されたそうです。
天慶元年、平将門の反乱軍と平貞盛の軍が、国分寺と千曲常田河原に於て戦ひ、そのため国分寺諸堂と大宮社の社殿楼門神庫、及び、附近の民家数百戸を戦火により焼失したとの事。
文治年中、常田庄八條院暲子内親王は大華表を鳥居場に建て大宮社に奉納。
康安2年、関東管領足利基氏は、彗星出現につき天下の安全を大宮社に祈り、その願文を奉 ったこの世代大宮社の名声天に普しと云ふ。この頃の旧記に大宮社の社域は、東西六丁、南北は八丁と記され、此の地坪は、大約十三万余坪と推定されて、往時の壮大且つ宏大な大 社の面影が偲ばれる。
應仁の乱より百十数年続いた戦国乱世もおさまり、徳川幕府は、天正18年、上田藩主に真 田信之を任命、次に仙石忠政次に松平忠周を任命したとの事。
各藩主ともに上田城の守護神、大宮社を篤く崇敬して、常に社殿其他建物を修理し護持につくしたそうで、藩主は毎歳1月1 5日参拝して自ら奉幣藩中安全を祈念したそうです。
元禄5年、藩主仙石政明は大宮社の枯神木に雨覆を取付けて保存を計ったとの事。
又、棟札及社伝に、宝永7年、正徳4年、元和2年、明和3年、安永9年の70年の間に五回大宮社 の修理を上田藩が行ったと云われているそうです。
万延元年、藩主松平忠礼は、本殿拝殿を再建新築。(現在の社殿)
信濃の国の鎮護国魂の神科野大宮社は、創祀以来二千年余の長い世代の変遷や戦国の世 に在っても、常田庄上田地方の人々は総社大宮さんと称奉って崇敬、信仰護持につとめ、 今に及び賑ふ豊かな町内又氏子として益々繁栄を続けているそうです。
祭神:大己貴命、事代主命
相殿:建南方富命
(戴いた資料『科野大宮社由緒略記』より参照)
『茅の輪』
この日は6月30日、夏越大祓の日。
ここにも茅の輪がありました。
私が伺ったのは、10時近くだったのですが、関係者の方が集まり、夏越大祓の準備をされていました。
茅の輪をくぐる際、木の渡し橋がとても綺麗で、そこを通るのが申し訳なくて・・・。
渡し橋を汚さないようにくぐりました。
境内には、様々な神様が祀られていました。
ここは・・・何でしょうか・・・?
説明書きがなくちょっと分かりませんでした。
どれも、とても立派な木です。
本殿裏にあった御神木。
本殿裏の御神木と相対するように、瓦が並べられていました。
こちらもとても立派。
石燈籠や、石碑が沢山点在していました。
市内に行った時、たまに近くを通りので、ずっと気になっていましたが、やっと行く事が出来ました。
いざ、境内に入ると、とても広くビックリ!!
もう少し、社殿の様子を拝見したかったのですが、関係者の方が、行事の準備をしていたので、お邪魔してはいけないと思い、ゆっくりは拝見出来ませんでしたが、とても立派な神社でした。